ナイチンゲール Florence Nightingale
(1820-1910)



情熱の統計家ナイチンゲール伝

 フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale, 1820-1910)(別名 Lady with a Lamp)イギリスの看護婦、女性の職業としての看護専門職の創立者。 ひたすら、やさしい「母性愛」と「忍従」と「奉仕」の社会的ステレオタイプを押し付けられる看護従事者のために、むしろ「統計データ」を理論的武器に髪を振り乱し、権威主義的軍医たちに対し戦いを挑み、ついに一つの専門職の確立をかちとった元「お嬢様」の苦闘の成果を紹介しよう。彼女が数学・統計好きだったことを覚えて下さい。

 両親の滞在地イタリアのフローレンスに生まれ、父からギリシャ、ローマ、フランス、ドイツ、イタリアの各国語・歴史・哲学・数学等の教育を受ける。このリベラルアーツ教育が後の偉業の礎となる。17 歳で宗教的召命を受け、後にこれが看護と知る、当時のヨーロッパでは看護はカトリックのシスターたちが中世以来の修道会組織のもとに献身として行っていたもので、看護婦という職業は一部の病院を除き有名無実であった。

 ナイチンゲールの名を歴史に残したのは、クリミア戦争(1853-56)勃発の翌年、黒海のトルコ側スクタリの英国陸軍病院での彼女の目をみはる活躍である。彼女が最初に見たスクタリの病院は収容過剰で混乱し、設備・物品は不足していた。ベッドは不潔でネズミとシラミが跳梁し、飲料水の供給は一日一人当たり 1 パイント(0.57l)と極度に低かった。病院とはいえないこの病院での死亡率は 40 %にも達し、しかもその何通りもある統計はみな食い違っていた。

 両親との旅行日記を時間と道のりの数字で埋めるような彼女は、病院の兵士たちの生活と衛生の改革を手のつけられるところから進める一方で、すぐに精力的なデータ収集にとりかかった。現代と違い統計学はケトレーの時代、まだ統計理論とてなく、独自の分析を武器に当局や現場を相手に改善計画の交渉が始まった。医者はおしなべて敵対的だったが、結局彼女の提案に納得し、従った。彼女と部下の看護婦一行が病院に入って 6 ヶ月後死亡率は 2 %と目覚しく改善された。ときにナイチンゲールは 34 歳、分析は実際は帰国後に追試とともに行われたのがほとんどであった。

 帰国後、収集分析した統計資料により 1,000 ページにも及ぶ「英国陸軍の健康、能率および病院管理に関する諸問題についての覚え書き」を書き上げ、次いで史上最初の看護についての専門書「看護覚え書き」を著し、1880 年はじめて近代的看護専門学校(Training School for Nurses)(通称ナイチンゲール・スクール)を設立、これを伝え聞いたビクトリア女王も彼女を引見した。この情熱こそ現代イギリスの有名な伝記作家リットン・ストレイチーのいう「輝けるビクトリア人」(Eminent  Victorians)の資質であったのだろう。これは統計的な見識は、人の知性と能力にいっそうの輝きを加えるものである、ということの立派な実例である。