プラトン『パイドン』

感覚的可視的なものへの不信

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 第1章概説へ


 「(・・・) 哲学は、肉眼による考察も、耳その他の感覚による考察も、すべて偽(いつわ)りにみちたものであることを示して、どうしてもそれらの感覚を使わなくてはならないばあい以外はそれらから離れているようにと説得する。そして、魂が自分自身に集中し、沈潜して、自分自身以外の何ものをも信頼せず、純粋に自分自身で純粋な『ものそのもの』を直感したときにだけこれを信じて、これに反してさまざまな事物のなかにあって異なった形をとるものを、自分以外のものを用いて考察するばあいには、そのような対象をけっして真実なものであるとしてはならぬ、そのようなものは感覚的な可視的なものであり、それに対し、魂が自分だけで見るものは叡智的(えいちてき)な不可視的なものなのだ、と教えてくれる。
 こうして真の哲学者の魂は、このような解放に対してはけっして反対すべきではないと考え、それゆえに、快楽や欲望や苦痛からできるかぎり離れるのだ。つまり、彼の魂はこう考えるのである。人が快楽や恐怖や欲望をつよく感じるとき、その結果としてうけとる悪は、ふつう考えられるような、たとえば病気をするとか、欲望をみたすために資産を費(つか)いはたすとかいう類(たぐ)いのことではなくて、諸悪のなかでも最大にして最後のものだ、しかも人は、だれ一人として、それを考えてみようともしないのだと」

 「その最大の悪とは何ですか、ソクラテス?」とケベスがたずねました。

 「すべての人間の魂は、つよい快楽や苦痛をうけると、それと同時に、そういう感覚を最もつよく与える対象こそ最も明瞭で最も真実であると−じっさいはそうでもないのに−考えざるをえないということだ。こういうことは、とくに可視的なもののばあいに多い。そうではないか」

 「そうです」

 「魂は、そのような経験のさいに最も肉体によって縛られているのではないか」

 「どういう意味で?」

 「個々の快楽や苦痛が、まるで釘(くぎ)でも秘めているかのように、魂を肉体に釘づけにし、押えつけて、肉体の言うことなら何でも真であると見なすよう魂を肉体に同化させる、という意味でだ。なぜなら、魂が肉体と同じことを考え、同じものを喜ぶならば、魂は、思うに、必然的に肉体と同じ習慣、同じ糧(かて)をもつようになって、けっして浄(きよ)らかな状態でハデスにいたることができず、つねに肉体によって汚(けが)されたままで世を去り、そうして、すぐにまたほかの肉体に入り、ちょうど種子が播(ま)かれたようにそこに根をおろして、その結果は、神的で清浄で単一な形をもつものとの共存は永久に奪われるであろうからだ」

 「ほんとうにおっしゃるとおりです、ソクラテス」とケベスが答えました。