アリストテレス『ニコマコス倫理学』

まとめ

「正義」とは正しいこと

適法と均等の2つの意味

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 ここでわれわれの考究するのは、これに対して、徳の一つとしての「正義」にほかならない。事実、われわれの見るところよりすれば、何らかそういう正義が存在しているのである。同様にわれわれのここにかかわる「不正義」も、やはり特殊な意味でのそれである。

 かかる別個の意味の正義があるべきだということの証左として、(1)他のもろもろの非徳に即した行為を行なうところのひとは、正しからぬ行為をしているのではあるが、しかし彼は「過多をむさぼ」っているわけでは決してない。たとえば怯懦(きょうだ)のゆえに楯を投げ出すとか、気むずかしさのゆえによく言わないとか、けちのゆえに財貨による救援を拒否するとかの場合。だがひとが「過多をむさぼる」ということをなすのであれば、彼のこうした行為は、しばしば以上のような悪徳のいずれに即しているものでもなく、いわんやそのすべてに即しているのでもない。だが、われわれはそれを非難するものなる以上、やはりそれは何らかの邪悪に即する行為なのであって、こうした邪悪がすなわち不正義にほかならない。してみれば、全般的な不正義の一部分として何らか別個の意味の不正義が存在するわけであり、違法という全般的な不正の一部分としての或る不正が存在するわけである。(2)さらに、もしここに、利得を目的に、姦淫によって金儲けする人間と、欲情のゆえに金を使って姦淫のために損失をこうむる人間とがあるとするならば、後者は過多をむさぼるたちではなく、むしろ放埓だと考えられるであろうし、前者は不正だと考えられ放埓だとは考えられないに相違ない。してみれば不正である所以は利得する者なるにあることは明らかであろう。(3)さらに、他のあらゆる不正行為はかならず何らかの非徳に帰せられることができる。たとえば姦淫した場合は放埓に、戦友を捨てて逃げた場合は怯懦に、ひとを打擲した場合は憤怒に−。だがもし利得したのであれば、このことの帰せらるべき非徳は不正義以外にはない。

 かくして、明らかに、全般的な不正義とは別個の特殊的な或る不正義が存在している。それがしかし同じ名称をもって呼ばれているのはその定義が同じ類に属するによる。つまり、両者いずれもが対他的関係において成立するものなのだからである。ただ、狭義の不正義は名誉とか財貨とか身の安泰とか−ないしはもしこれらすべてを網羅しうる何らか一つの名称があればそうしたもの−にかかわり、利得に基づく快楽をその目的とするものなるに対して、広義の不正義はおよそよきひとのかかわるごときあらゆることがらにかかわっているのである−。かくして、正義とは一つでなく、全般的な徳という意味のもの以外に或る別様の「正義」が存在していることは明らかであろう。このような正義が何であり、いかなる性質のものであるかをわれわれは把握しなくてはならぬ。

 「不正な」ということは違法的不均等的との二義に、そして「正しい」ということは適法的均等的との二義に区別された。違法的に該当するものは、さきにわれわれの述べたごとき意味での不正義である。不均等的ということは、しかるに、違法的と同じでなくして、部分が全体に対するごとくにこれとは異なるものであるがゆえに(なぜなら不均等的はすべて違法的であるが違法的は必ずしも不均等的ではない)、ここにいう「不正」とか「不正義」とかは、さきの意味におけるそれらと同一ではなく別様のものであり、前者は後者に対して部分と全体との関係にある。すなわち、この意味における不正義は全般的な不正義の一部分なのであり、正義についてもまたこれに準ずる。かくて、われわれはこうした特殊的な正義、特殊的な不正義について、同じくまた特殊な意味における「正しき」と「正しからぬ」について論じなくてはならぬ。

 われわれは、だから、ここでは、徳全般に対応するごとき正義、ならびにそれに準ずる不正義−前者は徳全般の対他的な発現であり後者は悪徳全般のそれである−はこれを論外におかなくてはならぬ。またこれらに即しての「正しき」と「正しからぬ」とがいかなる仕方で決定さるべきかは明瞭であろう。すなわち、法の規定する諸行為(タ・ノミマ)の多くは、徳全般の見地から命ぜられているところのものといって過言ではない。事実、法はそれぞれの徳に即して生きることを命じ、またいかなる非徳に即して生きることをも禁じているのである。そして、徳全般をつくりだすべきそれとしては、法の規定する諸行為のうち、およそ社会的な教育(パイデイア・ヘー・プロス・ト・コイノン)についての関心から立法された諸般の行為が存在している。もっとも、端的な意味における立派な人間をつくるための個々の人間の教育(ヘー・カタ・ヘカストン・パイデイア)について、はたしてこれが国政(ポリテイケー)の問題に属するか、それともそれ以外に属するかということになると、これは後にいたってわれわれの決定しなくてはならないところである。よき人間であるということと、或る任意の国(ポリス)のよき市民(ポリテース)であるということとは、必ずしも同じではないだろうからである。

 特殊的な「正義」の、ないしはこれに即した「正しい」ということの一種は、名誉とか財貨とかその他およそ国の公民の間に分たれるところのものの配分におけるそれであり(というのはかかるものにおいて或るひとは他人と不均等な取得を持つことも均等な取得を持つことも可能だからである)、他の一種は、もろもろの人間交渉において矯正の役目を果たすところのそれである。そして後者はまた二つの部分に分たれる。

 けだし、人間交渉というなかにも、随意的なものもあれば、不随意的なものもある。たとえば販売・購買・貸金・質入・貸与・寄託・雇傭のごとき性質のものは随意的であり(随意的と呼ばれるのはこれらの交渉の持たれる端初が随意的であることに基づく)、不随意的に持たれる交渉には、たとえば窃盗・姦淫・投毒・誘拐・奴隷誘出・暗殺・偽証のごとく隠密のうちに行なわれる性質のものと、たとえば侮辱・監禁・殺人・強奪・残害・罵詈・虐使のごとく露骨に暴力的な性質のものが存する。