アリストテレス『ニコマコス倫理学』

いわゆる「配分的正義」

比例的ゆえに四項を要求

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 第1章概説へ


 不正なひととは不均等なひと、均等を旨としないひとなのであり、「不正」ということは「不均等」(アニソン)ということであった。してみれば、明らかに、不均等ということに対してその「中」にあたるところのものがやはり存在する。「均等」(イソン)がすなわちそれである。事実、およそ過多と過少との含まれるいかなる行為においても、その「均等」がやはり存在するのである。かくしてもし、「不正」とは「不均等」ということだとするならば、「正」とは「均等」を意味する。このことは論をまたずして万人の容認するところであろう。だが、「均等」が「中」なのであってみれば、「正」もまた何らかの意味における「中」でなくてはならぬ。ところで、「均等的」ということは少なくとも2つの項の間において成立する。「正」とは、だからして、「中」であり、「均等」なのであって、それが「中」であるかぎり何ものかと何ものかとの(つまり「過多」と「過少」との)「中」なのであるし、「均等」であるかぎり2つの項の間における「均等」であるべきであるが、しかしまた、「正」であるかぎり、それは当事者たる一定のひとびとの間における「正」でなくてはならない。してみれば、「正」ということは、必ずや少なくとも4つの項を予想するものでなくてはならぬ。そのひとにとってまさにそれが「正」たるべき当事者が2、そこにおいて「正」が示現さるべきところのもの、つまり問題のものごと(プラグマタ)が2だからである。そして、これらのひとびととものごととにおいて同一の均等性が存するであろう。換言すればそこでは、ものごとの間におけると同様の関係がひととひととの間にも存するわけである。すなわち、もし当事者が均等なひとびとでないならば、彼らは均等なものを収得すべきではないのであって、ここからして、もし均等なひとびとが均等ならぬものを、ないしは均等ならぬひとびとが均等なものを取得したり配分されたりすることがあれば、そこに闘争や悶着が生ずるのである。

 さらに、「価値に相応の」という見地から見てもこのことは明らかであろう。けだし、配分における「正しい」わけまえは何らかの意味における価値(アクシア)に相応のものでなくてはならないことは誰しも異論のないところであろう。ただ、そのいうところの価値なるものは万人において同じではなく、民主制論者にあっては自由人たることを、寡頭制論者にあっては富を、ないしはその一部のひとびとにあっては生れのよさということを、貴族制論者にあっては卓越性(アレテー)を意味するという相違がある。

 してみれば、「正」ということは「比例的」(アナロゴン)ということの一種にほかならない。(比例的ということは単に抽象的な数に固有ではなく、総じて数的なるもの全般に属している。)比例(アナロギア)とは、すなわち、比と比との間における均等性であり、それは少なくとも4項から成る。不連続比例が4項から成ることは明らかであるが、連続比例の場合もこれと同様である。1項が2項として用いられ、繰返し出てくるのだからである。たとえば線分Aが線分Bに対するは線分Bの線分Cに対するごとくであるといったように−。線分Bが、だから、2度出てくるのであり、したがってもし線分Bが2度措定されれば比例項は4項となるわけである。

 「正」ということも、だから、少なくとも4項から成り、その比が同一なのである。すなわち、人間と人間の間、配分さるべき事物と事物の間の区分の仕方が同様なのである。だからしてAがBに対するはCがDに対するごとくであるだろうし、だからまた、これを置換すれば、AのCに対するはBのDに対するごとくであるだろう。したがって全体の全体に対するもまた同様である。全体とは配分を受けてそれと統合された全体を意味する。もしかような仕方で付加が行なわれたならば、それが正しい結合の仕方なのである。かくしてAをCに、BをDに組み合わせるということが配分における「正」なのであり、この場合の「正」は比例背反的なものに対する「中」にほかならない。けだし、比例的ということが「中」なのであり、「正」は、しかるに、比例的ということなのだからである。

 このような比例を数学者は幾何学的比例(アナロギア・ゲオーメトリケー)と呼んでいる。事実、幾何学的比例においては、全体の全体に対するは両者それぞれの両者それぞれに対するがごとくなのである。また、いまの場合の比例は連続比例ではない。人と事物とが数的に単一なる項とはなりえないからである。

 「正」とは、かくして、このこと、つまり比例的(アナロゴン)ということであり、「不正」とはこれに反して比例背反的(パラ・ト・アナロゴン)ということである。だからして、不正の行なわれる場合には、或いは過多が、或いは過少が生じるわけであって、まさしくこのことがことがらの実際において現われている。すなわち、不正をはたらくほうのひとは過多なる善を、不正をはたらかれるほうのひとは過少な善を得ているのであって、悪についてはこの逆である。というのは、より小さい悪はより大きい悪に比すれば善といえるものなのだからである。まことに、より小さい悪はより大きい悪よりも好ましく、だが好ましきものは善なのであって、より多く好ましきものはより大きい善にほかならない。

 かくして「正」の1つの種類は以上のごときものである。