ソクラテス解釈

哲人の無知の表明

読者をからかっているのではない

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 第1章概説へ


水墨画を見せて

 何もわからない、という答がもっとも本当らしいような問は多い。わかったとしてもそれは一つの思い(場合によっては、思いこみ)にすぎない。たとえば、小学校の美術の先生がクラスに対し、雪舟の水墨画を見せて、全く何の説明もなく、児童に考えたことをノートに書かせるとしよう。これは美術鑑賞だが、児童に考えさせることを学ばせる授業でもある。多くの児童がいろいろと書くだろうが(いや、相手は水墨画だから何も書けないかもしれない)、しかし最も期待される答えは何だろうか。それは

何だこれ?

ではないだろうか。

 実際、多くの哲学の教科書は、哲学は「何?」という疑問からはじまると書いてある。どんなことについて、「何?」なのだろうか。水墨画はとにかくも墨の跡は目に見える。しかし、きわめつきは

私とは何か

であろうか。「私」こそ私にはもっともわからない存在の一つであり、ソクラテスが哲学の究極の課題として「汝自身を知れ」といい、アテネの哲学の殿堂にこの標語が掲げられていたことはよく言われる。

 哲学の論戦において、単なる思いや憶測、詭弁(こじつけ)を言うよりは、最終解答は出さない、いや出せない、それが最も知的に誠実な態度であり、論戦に勝てるのみならず、それによって相手に深く考えさせることができる。それがプラトンの考え方の根本であった。ただし、この私を詭弁家というそういうあなたはどうなのだ、と突っ込まれる危険もある。プラトンの哲学は師ソクラテスを登場させる対話形式をとっているが、そういうギリギリの対話で、真理のあり方にせまっていく。プラトンの解釈家コイレ(Alexandre Koyré)は次のようにいっている。

 彼ら学者たちの言うところによれば、ソクラテスの音信は、疑いもなく、ひとつの哲学的音信とも言うべきものであった。これらの対話篇はひとつの教訓を含んでいる。しかしその教訓は、繰り返して言うが、特定の教義というようなものではなく、探求の方法についてのいましめであった。ソクラテスが教えてくれることは、討論にあたって、そこで用いられる言葉の意味を明確に規定することが、いかに必要で、またいかに重要であるか、ということであり、ふだんなにげなく使われている言葉のうちに盛られ組みこまれている、ありきたりの考えや通俗の理解を、あらかじめ批判的に吟味することなしには、その言葉の意味を明確に定義することはできない、ということであった。それゆえ、そこで行なわれる議論の結果は、一見なんら「これこれである」という積極的な結論に到達せず、きわめて消極的なものにすぎないように見受けられるかもしれないが、実はこの上なく価値のあるものなのである。つまり、議論のこのような結末は、まず第一に、ひとが当の問題についてみずからはなんら明確なことを知ってはいないのだ、ということを自覚せしめ、第二に、哲学的な反省をするにあたっては、日常使われている言葉、ないしは、それが持っているいろいろな意味内容が、出発点とはなるがしかしそれは単に出発点にすぎない、ということを明確に意識させるとともに、第三に、対話法と呼ばれる討論こそ、まさにこのような土台をのりこえ超克することを目的としているものにほかならない、ということに気づかせてくれる点において、この上なく重要な意味を持っている−というのである。

 以上の主張は確かにどれも正しい。あまりに正しすぎてふだんはことさら正しいとさえ意識されていないほどであろう。しかし少なくとも次のことだけは確実である。すなわちまず第一に、問題を追及する方法についての配慮がこれらの対話篇の構造を支配・決定しており、まさにそのゆえにこれらの対話篇は哲学教育の無比の典型として残っているのだということ、第二に、これらの対話の終着点にまちうけている、破壊的とも見えるいわゆる<排泄作用(カタルシス)>は、全人的規模における反省−すなわち迷妄と自己忘却のうちに沈んでいた魂が、真の自己を知り、ソクラテスの音信がさし招く高みへと翔り行くという、まことの自由人にふさわしい魂の全面的転換−のための欠くことのできない要件である、ということである。そして第三に、ソクラテスの人間像、それがさし示す理想像、さらには彼の存在そのもの、がこれらの対話篇の中心に位しているのは、彼の伝えんとする音信が人間の生き方に関する音信であって、単に教説を伝えんとするものではないというまさにそのゆえであり、そしてこのゆえにこそソクラテスは、たいていの場合、私たちを日ごとの生活の営みのただ中でとらえるのだということである。

 しかしそれにもかかわらずなおも不快感は残る。なぜならどんな説明が与えられようと、こんにちの読者にも、ソクラテスに直接接した人びと同様、この哲人の無知の表明というものが反語以外の何ものでもないとしか思われないからである。その当否はともかくとして、読者はソクラテスが自分で問うている質問に積極的に答えるべきであったし、またできもした、という思いをぬぐい去ることができない。読者はソクラテスが答えを拒んだことを遺憾に思う。そしてなおも自分はからかわれているのではないかと思い続けるのである。

 私の考えを正直に言わせてもらえれば、こんにちの読者のこうした感じは一面正当であるとともに他面また不当でもある。彼はソクラテスの告白する無知というものが反語的な性格を持っていると考えている点では全く正しい。また彼はソクラテスがひとつの教えを有していると考えている点でも正しい。最後に彼はソクラテスが相手をからかっていると見ている点でも正しい。しかしソクラテスが読者をからかっていると思いこんでいるならば、それは誤りである。もし自分が対話篇の読者であることを忘れてソクラテスの相手であると思いこむならば、それは誤りである。なぜならソクラテスがたとえしばしば自分の相手をからかったとしても、プラトンが自分の読者をからかうということは決してありえないことだからである。