プラトンの『饗宴*』

エロスの眞の意味

お酒を飲みながら談論

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 第1章概説へ

* シンポジウム:原義は「お酒を飲みながら」


 さて、いろいろの美しさを順序をおって正しく観(み)ながら恋(エロス)の道をここまで教え導かれてきた者は、いまやその究極目標に向かって進んでゆくとき、突如として、本性驚嘆すべき、ある美を観取するにいたるでありましょう。これこそ、まさしく、ソクラテスよ、これまでの全精進努力の目標となっていた当のものなのです。

 それは、まず、永遠に存在するものであり、生成消滅も増大減少もしないものです。つぎに、ある面では美しく別の面では醜いというものでもなければ、ある時には美しく他の時には醜いとか、ある関係では美しく他の関係では醜いとか、さらには、ある人々にとっては美しく他の人々には醜いというように、あるところでは美しく他のところでは醜いといったようなものでもないのです。

 それにまた、その美は、くだんの者には、ある顔とか、ある手とか、その他、肉体に属するいかなる部分としてもあらわれることなく、ある特定の言論知識としてあらわれることもないでしょう。あるいは、どこか、ある別のもの、たとえば動物とか、大地とか、天空とか、その他、何ものかのなかにあるものとしてあらわれることもまた、ないでしょう。むしろ、それ自身が、それ自身だけで、独自に、唯一に形相(けいそう)をもつものとして、永遠にあるものなのです。それに反して、それ以外の美しいものは、すべて、つぎのような仕方でかの美を分かちもつと言えましょう。つまり、これらもろもろの、それ以外の美しいものは生成消滅していても、かの美のほうは、なんら増大減少せず、いかなる影響もこうむらないという仕方です。

 したがって、ある者が、正しい少年愛のおかげで、この地上のもろもろの美しいものから上昇していって、かの美を観(み)はじめるときは、その者は、およそ究極なものに達したと申せましょう。なぜって、これこそが、自分の力ですすむにしろ、他人に導かれるにしろ、恋の道の正しいすすみ方なのですから。つまり、地上のもろもろの美しいものを出発点として、つねにかの美を目標としつつ、上昇してゆくからですが、そのばあい、階段を登るように、一つの美しい肉体から二つの美しい肉体へ、二つの美しい肉体からすべての美しい肉体へ、そして、美しい肉体から数々の美しい人間の営みへ、人間の営みからもろもろの美しい学問へ、もろもろの学問からあの美そのものを対象とする学問へと行きつくわけです。つまりは、ここにおいて、美であるものそのものを知るにいたるためです』『親愛なソクラテスよ』と、このマンティネイアからきた婦人はつづけた、『いやしくも人生のどこかに人間の生きるに値する生活があるとしたら、それは、まさにここにおいてなのです。いうまでもなく、彼はそのとき美そのものを観ているからです。

 そしてあなたも、ひとたびその美を観るならば、黄金も、装いも、世の美少年や美青年も、それを前にしては何するものぞと思われましょう。

 現在のあなたは、その青少年たちを見て、有頂天になっております。いや、あなたにかぎらず、自分の愛する少年をいつも目の前にして共にいられるものなら、それこそ、飲み食いも何のその、ただただ彼を見つめ、彼と共にいることをいとわぬあなた方です。

 いったい、わたしたちは、つぎのようなばあいをどう思うでしょうか。ある人が、純粋清純かつ無雑の相のもとに、美そのものを、すなわち、人間の肉や色など、いずれは死滅すべき数々のつまらぬものにまみれた姿をではなく、まこと、唯一の形相をもつものとしてこの神的な美そのものを、観るとしたら。

 かの美を望んで、それに用うべき本来の器官をとおしてかの美を観、それと共にいるとき、その生活は、そもそも、つまらぬものになると思われますか。それともあなたは、そこにおいてのみ、つぎのようなことが起こりうるとは考えてみないのですか。そのしかるべき器官をもってかの美を観ている彼が、いまとらえたものは真の徳であって、その幻像ではないからして、その産むものもまた、徳の幻像などではなく、ほんものであるということを。そして、真の徳を産み育てるがゆえに、その者は神に愛される者となること、また、いやしくも人間のうちだれか不死なる者となりうるならば、その者こそまさに該当するのだということを」

 さて、パイドロスならびにほかの諸君、以上が、ディオティマの話したことだ。そしてこれを聞いてぼくは、事実もそのとおりであろうと思った。

 で、そう思ったからぼくは、ほかの人々にも説いて、彼らがこの宝物を手に入れるよう、その助力者の役割をはたして、エロスにまさるものはなかなか手に入れがたいことを説得しようとしているのだ。こういうわけだからこそ、ぼくにかぎらず人はみな、エロスを崇(あが)むべきことを主張し、ぼく自身もまた、恋の道を尊び、怠らずにその修業にはげみ、それを他の人々にも勧告し、そして、現在もこれからも変わることなく、力の及ぶかぎりエロスの力と勇気とを讃(たた)えるわけだ。

 ところで、パイドロスよ、以上の話は、エロスへの讃美としてなされたものというふうに考えてもらってもさしつかえないよ。もっとも、それでは君の気にそまぬと言うなら、君の納得のいく呼び名、呼び方で呼んでくれたまえ」