マルクス・アウレリウス『自省録』

内なる神の命ずるに従う.

死も自然として受け入れられる.

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 第3章概説へ


 人間の生命にあっては、その歳月は点であり、その質料は流動するもの、感覚は混濁し、全肉体の組織は朽ちやすく、魂は狂乱の渦(うず)であり、運命は窺(うかが)いがたく、名声は不確実である。これを要するに、肉体のことはすべて流れる河であり、魂のことは夢であり煙である。人生は戦いにして、過客の一時(いっとき)の滞在であり、後世の評判というも忘却であるにすぎない。

 しからば、われわれを護(まも)り導きうるものはなにか。ただ一つ、哲学のみ。その哲学とは、かの内なる神霊(ダイモン)を、傲(おご)らず傷つかぬものにし、また快楽と労苦に打ち克(か)ち、欺瞞(ぎまん)と偽善とをもってでたらめになすことなく、他人にたいしなんらかの行為をなすよう、あるいは、なさないよう、求めることのないもの、かかるものとして、守りぬくことにある。かかる神霊(ダイモン)はまた、天から与えられて生起することを、自分自身の源と同じかの源から由来するものとして受け入れる。

 そしてあらゆるばあいに、死はすべての生物の構成要素の分解にほかならずとして、心温(あたた)かくそれを待ち迎える。この構成要素そのものにおいて、各要素がたえず他のものに変化する事態になんの恐れることもないならば、なぜにひとは万物の変化と分解とにたいし、上目(うわめ)づかいに胡散(うさん)くさい見方をするのか。死は自然の本性に適ったものではないか。自然の性(さが)に適って、しかも悪いというものは、ぜったいに存しないのである。

以上カルヌントゥムにおける記

・ 神霊:内なる神
・ 下線部引用者