ルソー『学問・芸術論』

学問と芸術は鈍化と腐敗のどちらに役立ったか.

人々をつなぐ鉄鎖の上の花飾り.

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 第3章概説へ


論文

 学問と芸術の再興は、習俗を純化することに寄与したか、それとも腐敗させることに寄与したか。これが検討すべき問題である。この問題において、わたしはどんな態度をとるべきであろうか。それは、無知ではあっても、みずからを持するところもある誠実な人間にふさわしい態度である。

 わたしの言うべきことを、わたしの出頭する法廷にふさわしいものにすることは至難のわざだろう。それはわたしにもわかる。ヨーロッパの最も学識に富んだ団体を前にして、こともあろうに学問を誹諺(ひぼう)し、高名なアカデミーにおいて無知をほめたたえ、学問研究に対する軽蔑(けいべつ)を真の学者に対する尊敬と一致させるようなことを、どうしてなしえようか。わたしはそういう矛盾対立を見た。しかもそれにわたしの心はくじけなかった。わたしは自分に言い聞かせた。自分は学問をみだりに非難するのではない、有徳な人々の前で美徳を弁護するのだ、と。博識が学者にとってそうである以上に、廉直は今なお善人にとって貴重なものである。そうならば、わたしは何を恐れることがあろう。わたしに耳を傾ける列座の明星を恐れるべきなのか。確かにそうだ。しかしそれはこの論文の構成についてであって、論者の見解についてではない。公正な主権者は、疑わしい論議では自分の非を認めるのに躊躇(ちゅうちょ)したことはない。そして、正しい権利を守るものにとって最も有利な地位とは、自分自身の訴訟(そしょう)の裁判官をつとめる、公明正大で明察に富んだものを相手として、自分を弁護しなければならない場合である。

 わたしを励ますこういう動機に加えて、さらに、わたしを決意させる動機が一つある。それは、自然の光明(理知)によって真理の立場を支持したからには、わたしの成功のいかんにかかわらず、必ずわたしに与えられる報賞があるということである。わたしはそれをわたしの心の底に見いだすだろう。

第1部

 人間が自分自身の努力によって、いわば虚無からぬけだし、彼の理性の光によって、自然が彼をおおいかくしていた暗闇(くらやみ)を払いのけ、自分自身以上に自分を高め、精神によって天界へまで飛び上がり、太陽のように巨人の歩みで宇宙の広大な領域を駆けめぐり、さらにいっそう偉大で困難なことであるが、自己の内部に沈潜[ちんせん−深く没頭する]して、そこに人間を研究し、その本性、義務、目的を知ろうとする。これこそ、まさに偉大で美しい光景だ。これらすべての驚異は、ここわずか数世代以前から再現したのである。

(中略)

 精神は肉体と同じように、その欲求をもっている。肉体の欲求は社会の基礎となり、精神のそれは社会の装飾となる。政治と法律とが集合した人々の安全と幸福とに備えるのに対して、それほど圧制的ではない、しかしおそらくいっそう力強い学問、文学、芸術は、人々がつながれている鉄鎖の上に花飾りをひろげ、彼らがそのためにこそ生まれたと思われるあの根源的自由の感情を押し殺し、彼らにその奴隷状態を好ませ、彼らをもって文明国民と称さられるものをつくりあげる。必要は王座を築いた。学問と芸術はそれを強固にした。地上のもろもろの強国よ、才能を愛するがよい。そして、それをみがく者を保護するがよい。文明国民よ、才能をみがくがよい。幸福な奴隷たちよ、君たちは君たちが誇りとしているあの繊細で高雅な趣味を、それらの才能のおかげで身につけたのだ。君たちのあいだの交際をあれほどなめらかにし、あれほど融通無礙(ゆうずうむげ)なものにしているあの温和な性格とあの都雅な習俗を身につけたのだ。一言で言えば、何一つ美徳を身につけないで、あらゆる美徳の外観を身につけたのだ。(後略)

・ 下線引用者
・ [ ]内引用者
・ ここにいう「芸術」は「諸学芸」くらいの意味