ガダルカナル撤収

1943. 2. 1 - 2. 7


   


 「ガダルカナル」といえば、今日では、見通しなくただ面子で延々と続き、得るところなく犠牲ばかりが増え最終的には失敗で終わる作戦の代名詞として知られる。同じく無益な消耗戦の例として「インパール作戦」と並び称せられている。

 ガダルカナル島(Guadalcanal Is.)はソロモン諸島の一つの島で、日米激戦の地である。それほど大きくないこの島は、太平洋戦争開戦後約半年 1942 年中ごろ太平洋戦争の中で日本の最大占領域のまさに最前線にあり、ここをベースに前進を目論む日本にとっても、ようやく本格的反攻の橋頭堡を目指すアメリカにとっても、島にある航空基地の争奪戦は絶対に負けられなかった。アメリカ軍が上陸した 42 年夏から始まる防衛は、日本本土から何千キロにも及ぶ遠距離補給の困難さのために非常な困難な消耗戦に追い込まれ、戦死よりもその前に戦病死・餓死する者の数が上回ったその悲惨さは、当時「餓島」と形容されるまでになった。

 これほどの惨敗に終わった最大原因は、中央が既定作戦にこだわりその失敗と挫折を認めずついには撤退の時期を見失ったからである。泥沼化した奪回作戦は圧倒的なアメリカ軍を相手に絶望的に延々と続いたが、1942 年12 月末日ついにガダルカナル島の撤収が決定。翌年 2 月 1-7 日撤収作戦が行われ、半年にもわたる争奪戦は多大な犠牲を出しながら島の放棄でその幕を閉じた。撤収作戦自体は順調に行われたが、「撤退」といわず「転進」(方向を変えた進軍)と一般国民に発表され真実が隠されたことはよく知られている。

 日本の戦史家にも批判は多い:「ガ島作戦は日本軍のガ島からの総撤退によって完敗に終わった。そして多くの問題を残したが、その中の最大のものは戦力の大消耗であり、我が国を決定的に敗北に導く主因となった」(外山三郎『図説太平洋海戦史2』光人社, 1995)

 ガダルカナル撤退後も、日本軍の前線の後退は止まらず、数々の海戦を引き起こしたながらも次第にラバウル(Rabaul)まで、さらにはニューギニア東岸までと下がる一方の運命となった。翌 1944 年に入ると、アメリカ軍の反攻は次第に積極的かつ日本本土を指向するようになり、まずカロリン諸島のトラック島に猛攻撃が加えられ、6 月には太平洋の国土防衛線の防波堤とされた要衝サイパン島(マリアナ諸島)にアメリカ軍が上陸、19 日のマリアナ沖海戦での日本の大敗を経て、7 月 7 日サイパン島が陥落、太平洋戦争の戦局はここに重大段階を迎える。

 なお、要塞化したラバウルは、アメリカ軍の反攻がここを通過するのみであったので、孤立しつつも 1945 年の終戦まで持ちこたえた。写真はガダルカナル撤収作戦、終戦までのラバウル防衛の司令官であった今村均大将。いくつかの伝記が書かれている。


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