イアン・ハッキング著  石原英樹・重田園江訳

『偶然を飼いならす:統計学と第二次科学革命』 木鐸社 1999年刊

The Taming of Chance by Ian Hacking

Cambridge University Press 1990


目次

以下はハッキング自身による内容紹介である。

 

1章 本書の概要

決定論は19世紀中に衰退し、偶然chanceという自律的な法則のために空間が開かれた。また、人間本性human natureという概念はばらつきdispersionの法則に従う正常人normal peopleというモデルに取って代わられた。これら二つの変化は平行して起こり、相互に影響を与えあっていた。偶然は世界から気まぐれを減らし、言わば混沌から秩序を生み出したために、その正当性を認められたのである。世界と人々について我々が行う概念化において、非決定論の要素が強くなるにつれて、逆説的であるが、期待できる統制の水準が高まったのである。

これらの出来事はナポレオン時代の終わりの<印刷された数字の洪水>から始まった。さまざまな人間行動、特に犯罪や自殺などの悪い行いが計測されるようになると、それらは毎年驚くべき規則正しさで起こることが分かった。社会の統計法則が、逸脱についての公的な統計表から出現してきたのである。平均やばらつきのデータが正常人という概念を生み、さらに新しい社会工学、つまり好ましくない階級を改良するための新しい方法を生み出した。

19世紀初めには、統計法則は根底にある決定論的な出来事に還元されると考えられていた。しかしやがて、統計法則の方が優越することが明らかとなり、紆余曲折を経ながらも、ゆっくりと決定論を浸食していった。やがて、統計法則は決定論に依存せず独立した法則と見なされるようになり、その影響は自然現象にまで拡張された。こうして、新たな種類の「客観的知識」が存在するようになった。それは、自然や社会過程についての情報を獲得するための新しいテクノロジーの産物であった。このようにして正当化されるようになった統計法則は、出来事の過程を記述するためだけでなく、説明し理解するためにも使用されるようになった。こうして自然と社会の基盤を形作る素材になったという意味で、偶然は飼いならされたのである。

2章 必然性の教義

1800年には、「偶然」というのは実体を持たない単なる言葉と考えられていた。あるいはそれは無知な大衆の観念であり、運命や無法則性を指すものであった。つまり、啓蒙的な人々の思考からは除外されるべきものだった。少なくとも物質世界においては、先行する条件によってすべての出来事が決定されると考えられていた。有機体については普遍的な法則を否定していた生医学の研究者たちでさえ、必然性を持った因果性が個々の事象ごとに連鎖連鎖しているという考えを支持しており、根本的な偶然という考えを認めてはいなかった。

3章 アマチュアは公表し、官僚は隠匿する

18世紀の官吏は徴税、徴兵、国力評価に役立つ統計データを集めた。それらの情報は政府が独占していた。これに対して、アマチュアや学者たちは数字で表せる事柄を盛んに流通させた。それらは広く公刊されたが、組織的に集められることはなかった。プロイセンの例。

4章 統計局

ナポレオン後の平和が訪れた時期に、ヨーロッパ諸国は、社会生活と行政のすべてについての統計を集めて公刊するための役所を作った。これらの国々は、情報を一ヶ所に集めて配布するための新しい制度を作ったのである。こうして1820年から1840年にかけての、<印刷された数字の洪水>が始まった。プロイセンの例を続ける。   

5章 理性の甘美な専制

しかし数字だけでは充分ではなかった。プロイセンは統計法則という概念を発展させることができなかった。それは西ヨーロッパで、とりわけフランスとイングランドで起こった。革命前のフランスには合理的な道徳科学の伝統があった。その後、<数字の洪水>はそれを経験的な道徳科学に変えた。しかし社会の管理regulationと法則lawについての啓蒙的な見方は保たれたままだった。コンドルセ(理性にかなった選択についての理論家) の例と、彼に取って代わり、統計的思考を生み出した官僚たちの例。              

6章 病気の数量

1815年以前には、人間に関する統計的一般化は主として出生・死亡・婚姻に限定されていた。英国の国会議員による調査は、ある新しい「生物学的」法則、すなわち病気に関する統計法則が、いかにして、いつ、存在するようになったかを正確に示してくれる。それは1825年の特別委員会の時である。                   

7章 科学の穀倉

世界は徐々に数字化してきた。この事実はバベッジによる自然と人為の定数を集めようという1832年の提案にはっきりと現れている。これは新たに浸透していく数字、つまり世界を知り管理するのに用いられる定数についての言明だった。

8章 自殺は一種の狂気である

<印刷された数字の洪水>は、特にフランスでは、逸脱者に関する数字を集めた表という形で現れた。パリとロンドンの住人ではどちらが自殺しやすいかという1815年の論争は、決着するまで10年を要した。ちょうどその頃、多くの新しい制度がデータを集め公刊するために作り出されたからである。自殺は統計学には繰り返し登場するテーマである。医学帝国主義が一時代を築いていた当時、暗黙の三段論法が存在した――狂気は医者によって取り扱われねばならない。自殺は一種の狂気である。だから自殺統計はほかの医学統計と同様に扱われねばならないという推論である。結果として、医学的因果理論が自殺に適用された。さらに、この理論が逸脱に関する統計すべてに応用された。                               

9章 立法の哲学の経験的基礎

1820年代になると、公的な統計表において、特定地域の自殺のタイプや数を数え上げることができるようになった。これらのデータや、犯罪や「みじめな人々」についての同様の情報は、コンドルセの合理的道徳科学の後継者を準備することになった。新たに登場した道徳に関する経験科学は、人間の悪い行い〔犯罪や自殺〕が有する統計法則を取り扱うことになる。

10章 信憑性がなく、詳細も分からず、統制を欠いた、価値のない事実

医学統計を治療の成果を判断するために採用する最初の試みがなされた。ブルセの新しい生理学的医学に関する論争と、結石治療のためのある新しい方法についての詳細な分析を対比させる。     

11章 何対何を多数決とすべきか

コンドルセとラプラスは、最も効率的な陪審システムを設計するという問題にアプリオリな〔=経験的データに依存しない〕解を与えようとした。彼らは経験的なデータを持っていなかったのである。このデータはフランス司法省が犯罪統計を提供しはじめてから入手できるようになった。ポアソンがこの新情報を陪審についての統計分析に取り入れた。  

12章 大数の法則

1835年にポアソンは統計による裁判研究の過程で、「大数の法則」という用語を造りだし、重要な極限定理を証明した。この定理は、確率数学を社会事象に応用するにあたって、さらなる合理性を提供した。またこの定理は、社会の出来事の中に統計的安定性がいかなる形で存在しうるかを説明していると思われた。     

13章 兵士の胸囲

1844年にケトレはコイン投げの結果の相対頻度の極限的事例(これが二項法則だが、天体の測定における誤差法則でもある) 、人間の特性や行動の経験的分布に合致する曲線(いわゆるベル型カーブ、あるいは正規曲線) を与えるという見解を示した。これは人間に関する新たな統計法則の正確な形を表しているように思われた。因果性概念は(医学的モデルにおいても) 、統計法則を決定論と整合性のあるものにするために、作り替えられはじめた。    

14章 社会が犯罪を準備する

統計的運命論の問題が起きた。仮に、毎年ある一定の地域で非常に多くの人が自殺をするというのが法則であるとすると、明らかに人々の中から自殺をなくすことはできない。これは一見ばかげた議論だが、社会統制の可能性と、それが持つ道徳的責任の意味に対して、多くの人が注意を向けはじめたことを反映している。 

15章 社会の天文学的概念化

統計的運命論は、特に自殺の例に関して、バックルの著名な『イングランド文明史』がらみでドイツで取り上げられた。熱狂的な論争は、新しい種類の法則、つまり統計法則についての原子論的概念と全体論的概念の間の根本的な違いを際立たせた。これらの違いは、西側の自由意思論者と東側の集団主義者における社会像が対照的であったことを反映している。         

16章 社会の鉱物学的概念化

平均概念とはまったく異なる定量化の方法もありえた。ユートピア的伝統主義者ル・プレは一家族の家計支出をある階級の生活様式の代表値として用いて、全く異なった種類の社会科学を提案した。これは、プロイセンの統計局長官が家計支出を用いたやり方と対照的である。ここでの対立点は、まさに何を客観的知識と見なすかという点に関わっていた。 

17章 最も古い崇高さ

統計学への激しい反動は、風刺劇、コント、ドストエフスキー、ニーチェにおいて現れた。だが、気まぐれなものの居場所を見つけようと望む人や、あるいは純粋な偶然という古い概念を回復しようと望んでいた人でさえも、偶然、偶然の法則、偶然の利用に関しては両義的な態度を取った。 

18章 カッシーラのテーゼ

カッシーラは20世紀の決定論の概念はごくごく最近のもので、1870年頃に出現したに過ぎない、と述べている。すると、量子力学は因果性の古い概念を論駁しているのではなく、因果性の新しい概念とのみ対立していることになる。カッシーラのこの提起の中で正しいのは、必然性という概念に内在する根本的な首尾一貫性の欠如は、1850年から1880年の間に表面化したということである。また本章では、「決定論」という言葉について、その起源は1780年頃で、その新しい用法は1860年頃のものとして説明した。

19章 正常状態

「ノーマル」という用語は記述と評価の二重の意味でずっと使われてきた、しかし、それが「通常の」とか「典型的な」という意味で使われだしたのは、やっと19世紀に入ってからである。この用法は、最初生理学の中に登場した。この用法の代表的人物はブルセで、それからコントによって政治問題へと移し入れられた。正常性は、きわめて重要な位置を占めていた人間本性human natureという啓蒙的概念を追い払い、二つの役割を担うことで発展した。一つはケトレ−デュルケムの、正しく良いものとしてのノーマル。もう一つはゴルトン主義者の、凡庸で改良の必要のあるノーマル。どちらの役割においても、ノーマルという概念それ自身は客観性・公平性のしるしとして、「である」と「であるべし」の価値中立的な橋渡しの役割を担っている。

20章  宇宙的な諸力と同じくらいリアルな

デュルケムの数量社会学は医学、統計学、自殺概念の交錯点において形成された。正常と病理という概念は生理学から社会科学に取り入れられた。犯罪人類学の議論の中でデュルケムは、犯罪と自殺は正常現象であると結論づけた。さらに、正常なものからの偏差deviationsが、社会の病理状態の指標であるとした。偏差は、個人からは独立したリアリティを持つ社会法則と社会的諸力によって支配されているのである。デュルケムはケトレが創造した新たなリアリティを引き継いだと言える。               

21章 統計法則の自律性

ケトレのベル型カーブは英国では正規法則と名づけられた。かなり幅広い現象において、その法則はぴったり当てはまるか、ほとんどぴったり当てはまり、一見無秩序に見えるものの中に、いかに秩序が生起するかを示していると見なされた。ゴルトンは、統計的安定性がどこから来るかについて、ケトレの考えに反論した。統計的推論の技術が進歩した結果、確率法則が、<根底において作用する決定論>という構造からいかに自律的になったかが明らかになってきた。必然性の教義は放棄されたわけではないが、それは、現象を予測するにも説明するにも、統計学にとっては問題にならなくなっていった。      

22章 プロイセン統計からの一挿話

統計学は、たとえば正常性など、人間管理の基礎として役立つような統制の役割を担う概念をもたらしたが、この学問にはもっと具体的な応用例もあったことを忘れてはいけない。統計学は権力行使において直接的で可視的な要素だった。1880年代ベルリンの反ユダヤ主義運動におけるユダヤ人統計をめぐる議論はこれを例証している。 

23章 偶然の宇宙

偶然という論理はこうした変化の過程で同じままではありえなかった。C. S. パースは必然性の教義を徹底的に否定した。彼は統計的安定性の基礎の上に、帰納的推論の論理を据えた。実験構想の中に人工的な無作為化の原理を持ち込んだ。すべての統計学推論に関しての二つの競合する原理の内の一つを与えた。彼のリアリティに関するプラグマティックな概念は、真理を、長期的にわれわれが見出すものとした。彼は絶対的なチャンス偶然を信じ、自然の法則がせいぜい近似的でしかない、無作為〔=ランダム〕な過程から生じるような宇宙を信じていた。偶然はもはや無法則なものの代名詞ではなく、すべての自然の法則とすべての合理的な帰納的推論の核となった。彼の根源的な非決定論は、世界の確率化とそれについての人々の知識の必然的な帰結であったと考えれば、さほど驚くべきものではない。彼は、我々が偶然の宇宙に住んでいるのは論証から明らかになるのではなく、確率と統計がすでに人生のすべての側面に浸透しはじめているからだと結論づけた。