いま「明治」というと、司馬遼太郎の歴史小説が代表するような開明的な時代と思う人も少なくなかろう。けれども、このモノトーン(単一)の暖色調よりは、鹿鳴館の絵柄に見えるけばけばしさと、新田次郎のノン・フィクション『八甲田山死の彷徨』で知られる陰惨さとがないまぜになった時代と思えば、人が明治という過去をよりリアルに肌で感じる上ではむしろバランスは良いだろう。
そこで、『日本史小年表』(山川出版社)をみる。
明治35年1月23日、第8師団第5連隊、八甲田山雪中行軍で遭難
とある。『八甲田山死の彷徨』(新潮社)はこれから題材をとっている。
ノン・フィクションではあるが、そのカバーには
日露戦争前夜、厳寒の八甲田山で過酷な人体実験が強いられた。神田大尉が率いる青森 5 連隊は雪中で進退を協議しているとき大隊長が突然「前進」の命令を下し、指揮系統の混乱から、ついには 199 名の死者を出す。少数精鋭の徳島大尉が率いる弘前 31 連隊は 210 余キロ、11 日間にわたる全行程を完全に踏破する。2 連隊を対比して、自然と人間の闘いを迫真の筆に描く長編小説
と事件概要が描写されている。
北国、山岳、厳冬、猛吹雪、不慣れ、統率の無責任。幾重にも重なる悪条件の中、大部分の兵は四肢・全身の凍傷で行き倒れ、救助隊の発見時、人間の氷柱が累々と重なる不気味な光景であったという。わずかに助かった者も、ほとんどが重症の凍傷で、両手・両足切断でかろうじて死をまぬがれた。大惨事である。
衝撃を受けた陸軍当局はこの不祥事をひた隠しに隠し、ごく少数の生存者も日露戦争の激戦地黒溝台の戦闘で戦死、事件の真相は以後長らく秘密のベールに包まれてきた。もっとも、地方史家は事件をよく調べ語り伝えてきたところ、このノン・フィクションで広く全国に知られることになった(その間若干の事情があったようである)。今日遭難現場付近には記念館があり、四肢を失った生存者の集合写真を始め多くのなまなましい資料は、訪れる者に驚きと衝撃を与えずにはおかない。
新田次郎は気象学者で天候描写はさすがに正確精緻であるが、人と自然の戦いが主題とは思われない。ここでのテーマは現代にいわゆる「危機管理」であり、組織での意思決定のあり方である。よくあるのが、状況把握が難しく恐怖が支配する中では、個々人の熟慮よりは猛進や突破を呼号する「空気」に全体が流され、撤退のチャンスを自ら閉ざす、危機管理の日本型決定である。八甲田がそれであった。
『八甲田山死の彷徨』でも、上層部が突破・進軍、部下は慎重・撤退を唱えるが、結局「空気」の中で上層部の無責任が通る。さぞかし、そうであろう。軍隊では階級の上下は決定的かつ最終的である。またそうでなければ軍隊は機能しない。その意味では「合理的」である。ただ責任は別である。責任の問題は永遠に残る。新田次郎の最後の感想が述べられる。
五連隊の遭難者墓地は幸畑(こうはた)にある。四方に土手を築き、桜と赤松をめぐらせ、そのなかに芝生を植え込んだ、なにか西洋の墓地を思わせるものがあった。正面には山口○大隊長(小説では山田大隊長)の碑が一段と高く聳え、その左右に将校たちの碑が階級に準じて並んでいた。この中に神成文吉大尉(小説では神田大尉)の碑があった。一段下って、南側と北側には参拝者の通路をへだてて下士卒の碑が並んでいた。
死しても階級の差は厳然として示され、近づきがたいものを感じた。
私も、1980年の5月まだ薄ら寒さの残るころ、弘前から十和田湖南岸を回り三本木(現在の十和田市)を通り、青森市へ抜けるこの陰惨な山あいにある現場を通り、その後この幸畑の墓地に寄ってみた。やはりそうであった。どんな不祥事を起こしても偉いものは偉いのだ。そこに明治から今日まで続く日本の姿かたちの不合理がある。「戦略的」であることはいいことである。しかしこういうところでは、「戦略的」思考も座り悪く、縁が薄いのではないか。
この作品を今読んだ感想は以前読んだ感想とはやや違っている。作品がわずかな難を含むとすれば次のことになるだろう。
もともと、遭難した青森隊は弘前隊と同じく、下級者(大尉)がその中に上級者(大隊長=少佐)をも含む連隊の行軍を指揮する形となっていた。新田は、この少佐の奇矯な行動が指揮命令系統を混乱させ破滅をもたらしたとの価値評価を与えている。事実としてはそうであろう。ただ、ことの本質は別ではないか。下級者が上級者を指揮する行軍の企画自体、指揮内容以前の危険な不合理を含む。では「合理的」に戻せばよいのか。上級者が指揮に優れるという保証はさらにない。
しかし、重要なことは、青森隊も弘前隊も最初から等しく不合理な組織形態を背負って危険な作業に出発したわけで、成功・失敗を大きく分けたのはささいな偶然と、参加者の個人的パーソナリティの違いであったということである。
* 注)彷徨(ほうこう):さまよい動くこと。
注)ウィキペディア(「八甲田山死の彷徨」の項)には、この小説はノン・フィクションではないとする記事が寄せられている。また、そこでは原因を旧軍の体質および指揮系統とする新田説に疑問も出されている(なお、もともとウィキペディアの寄稿者は匿名である)。
日露戦争直前の1902年(明治35年)に、ロシアとの戦争に備えた寒冷地における戦闘の予行演習として、また陸奥湾沿いの青森から弘前への補給路をロシアの艦砲射撃によって破壊された場合を想定して、日本陸軍が八甲田山で行った雪中行軍の演習中に、参加部隊が記録的な寒波に由来する吹雪に遭遇し210名中199名が凍死した八甲田雪中行軍遭難事件を題材にした山岳小説。演習当日には、北海道で史上最低気温が記録されるなど、例年の冬とは比べ物にならない寒さであったとされている。ノンフィクション小説として扱われる事も多いが、実際には、史実を題材としながらも作者自身の解釈や創作が含まれるフィクションである(以下略)
なお、作者新田次郎は今日我が国の古典道徳をベストセラー『国家の品格』として現代人に売り込んでいる藤原正彦氏の実父である。我が国の旧き時代に際だっていた精神主義がこのような大スキャンダルと地続きであることを描いた作品が、『八甲田山死の彷徨』であるとするならば、まさにこれこそ親の心子知らずではなかろうか。
(本稿2006.11.11)New !