寄稿 ゲーム理論と意思決定

東京大学大学院新領域創成科学研究科教授 松原 望


1 ゲームにはプレーヤーが互いに協力する協力ゲームと協力しない非協力ゲームがある。非協力ゲームは経済学において重要な役割を果たしているが、重要なところはすでにフォン・ノイマンによってほとんど解かれている。政治学などにより幅広い分野に応用が利く協力ゲームのほうが発展の可能性は大きい。

2 非協力ゲームのよく知られている事例として「囚人のジレンマ」「恋愛ゲーム」「チキン・ゲーム」が挙げられる。たとえば、規制緩和は、権力当局と企業の間に繰り広げられた「チキン・ゲーム」の要素を持っている。いずれも現代的なテーマとしてとらえられる。

3 日本人が「意思決定」に関心を持つのは、それが苦手だからだろう。決断する人の登場する歴史小説がもてはやされるのも憧れゆえだ。ただ現代の意思決定は英雄列伝の中のように悲劇的でも精神主義的でもない。組織の中の普通の人が日々直面していることなのだ。俗受けしている歴史物を信じ込むのでは進歩がない。意思決定は結局はその人が自分で考えるものだ。


深く事実を分析する

 「ゲーム」というまえに、まず事実をしっかりと深くとらえておくことが重要である。

 図表 1 はある飲料メーカー(たとえばコーラとしよう)の競合する銘柄 A, B の各都市における売上高データである。人口その他の諸要因にもとづく大・中・小都市の分類に従ってデータがとられている。A と B は競合銘柄であるから、A の売上げ xA と B の売上げ xB の相関関係は負(マイナス)になると人は予想するだろう。相関係数とは 2 量の関係をしめす統計量で、−1 から 1 までの範囲にあり、一方が増えるともう一方も増えるならプラス、減るならマイナスとなる。しかし、29 都市について散布図(相関図)を描くと、予想に反してプラス(0.49)となることは一目瞭然である(図表 2)。競合していても、全体として、一方が売れれば他方も売れるというケースなのである。ここで、事実(データ)によって表面的常識は破られている。深く見なければならないのだ。

 しかし、相関図を人口などの規模で大・中・小ごとに三つの群に分ける(ある基準による群を一般に層といい、いくつかの層に分けることを層別という)ことによって、常識がまったく破れたのではないことがわかる。つまり、常識が、ある見方では正しく、別の見方では成り立たないのだ。小都市の層において、xA と xB は負に相関している。中都市の層でも大都市の層でも同じである。

 つまり、「小都市」(「中都市」でも「大都市」でも同じだが)ということで、市場人口が一定サイズに固定されれば、xA と xB がマイナスの相関関係になることは、あたりまえである。逆に、人口を固定せずに、小、中、大と全部ひっくるめた A, B の売上げ xA, xB の相関係数 rAB がプラスになるのは、人口が増えればその影響で「コーラ」の需要も増えるというメカニズムが、この場合(一般にはそうとは限らないのだが)、働いたためである。実際、人口の影響を統計計算で求め、それを差し引いたのち、相関係数を計算するとほとんど 0(無相関)になる(−0.19)。

ゲーム理論とは

 ところで、ここで述べたことは、ゲーム理論的にも並行して考えることができる。人口規模ごとに見る場合、「ゼロサム・ゲーム」(一方の当事者にとってある量増えると、他方にとっては同量減る関係)をプレーしているが、全体でみれば「プラスサム・ゲーム」(ポジティヴサム)がプレーされている。つまり、たがいに需要を増やしあっているのである。念のため、「サム」とは「和」のことである。

 そこで、このことをきっかけに、最近好評を博した『ビューティフル・マインド』の主人公ナッシュ(John Nash)がうち立てた「ゲーム理論」(セオリー・オブ・ゲームズ)について、Q&Aをやってみよう。

―― ナッシュの確立したゲーム理論とはどのようなものですか。

 ゲーム理論とは、利害対立をもつ複数主体間の社会的戦略を、ゲームの形で一般化した理論を指します。相手の出方を考えながら自らの行動を決定するゲームとしては、プレーヤー間に協力要素のない非協力ゲームと、協力が目的もしくは前提とされる協力ゲームの 2 つがあります。

 非協力ゲームとは、複数のプレーヤーがお互いに協力せず、自分の利益が最大になるように行動する場合のやりとりです。碁、将棋、チェスの勝負、もしくはキリンとアサヒの市場をめぐる駆け引きなどを考えればわかりやすいでしょう。

―― 経済行動は非協力ゲームになるのですか。

 基礎としてはそうです。資本主義社会の市場観では、個人はあくまで自分の利益のみを追及すると考えます。この考え方だと、市場は大混乱に陥ったり荒廃してしまう気がしますが、実際には市場が調和する結果となります。非協力でも心配は要らないのです。この不思議な調和をアダム・スミスは「神の見えざる手」によってもたらされると考えました。映画の中でナッシュが「アダム・スミスは間違っていた」と言うシーンがありましたが、実のところ、ナッシュはこのアダム・スミスの曖昧な理論を数学で厳密に証明したのだと私は考えています。

―― 協力ゲームはどんな場合ですか。

 協力ゲームとは、複数のプレーヤーが共通の利益を求めた時におこる利益分配のやりとりなどです。例えば、砂漠で 2 人がそれぞれ 1 瓶の水と 1 個の栓抜きをもっている時、その水の分配量をどのように決定するかという理論です。「経済」に対して「政治」ですね。境目は難しいですがね。

 瓶の持ち主が水の 8 割を飲むと主張したら、栓抜きの持ち主は自分の取り分の少なさに怒って、栓抜きを貸してくれないかもしれません。8 割飲む権利を主張することは、何も手に入らない結果を引き起こしうるわけです。このように、それぞれのプレーヤーが主体性のある人間であるため、利益の分配は極めて難しい問題です。しかしナッシュは、数学を使ってその複雑な問題に理論上の最適解を出してしまった。もちろん、人間である以上その申し出を断ることもありうるわけですが。

―― 非協力ゲームの理論が評価され、ナッシュはノーベル経済学賞を受賞しました。彼の最大の業績は非協力ゲームにあったと考えてよいのですか。

 確かに、非協力ゲームは経済学において重要な役割を果たしていますが、協力ゲームの方が発展の可能性や実用性が高く、私はより面白いと感じます。政治分野の戦略投票などには協力ゲームが応用されているものの、経済学の分野では依然として非協力ゲームが主流で、協力ゲームは重要視されていません。ノーベル賞によって非協力ゲームがスポットライトを浴びた一方で、協力ゲームの印象が薄くなってしまったのかもしれませんね。答えが出ることは数学的にはあきらかで(すでにゲーム理論の最初の創始者フォン・ノイマンがほとんど解いてしまいました)比較的単純と言える非協力ゲームに対し、協力ゲームは経済学だけでなく広く応用のきく実用的な理論です。これから協力ゲームの重要性は増していくことでしょう。

―― 何かわかりやすい例を話してくれませんか。

 では、よく知られている非協力ゲームを 3 通り紹介しましょう。

囚人のジレンマと過剰生産のワナ

 まず非協力ゲームの一つ、有名な「囚人のジレンマ」のゲームを解説するとしよう。「個人としての最良が最悪の結果に導く」が「囚人のジレンマ」のいいたいところで、過剰生産による価格暴落(野菜、かつての繊維)は「囚人のジレンマ」現象の典型である。すべての生産者が自己の売上げを増加させようという行動が、市場価格の大幅下落と各生産者の利益の減少をもたらしてしまう。こうなるとドロ沼である。

 2 人の囚人、木常太郎、田貫次郎(キツネ、タヌキと呼ぶ)が共犯容疑で、それぞれ独房に入れられている。互いに連絡はできない。検察官は証拠の大半を握っており、2 人が自白することを期待している。さて、ここで 2 人の行動の組合せが問題になる。両方とも自白せねば、この罪名については起訴できず、同時に行われた軽い犯罪について起訴することになる。それぞれ 1 年の刑を受けるものとする。しかし、一方が自白し他方がしなければ、した方については、捜査協力による免責――英米ではひんぱんにこれが行われる――を受け 3 ヵ月、しない方については、他の共犯者により犯罪の全貌が明らかにされ、10 年の刑を受けることになる。また、両方自白すれば、互いの自白により、両方 8 年の刑を受ける(図表 3)。

 そこで、キツネから見てみよう(図表 4)。このように考えると、タヌキがどうしようと、いかなる場合もキツネさんは自白した方がしない方よりも有利である。これは、キツネ個人の合理的考え方である。同様にタヌキ個人としても自白する。するとどうであろうか。双方とも、8 年の刑に服することになってしまう。個人として最良と考えたことが、集団{キツネ、タヌキ}としては、最悪の結果に導くのである。

恋愛とゲーム

 高級宝石が売れていると聞いたことがある。男が宝石を好むわけはない。カップルで来て買っていくのだろうが、やはり恋愛という要素は抜きにして考えられない。

 恋愛は人類の最大関心事である。改めてここで述べる必要もないだろう。我が国を代表する文学作品は『源氏物語』であるが、一国を代表する文学作品が恋愛の文学とは、これいかに ... ... などとあれこれ思案すると、改めて人間の心の領域で恋愛が占める部分が大きいことに気づく。人口学者・経済学者マルサスも人口の基本原理は男女の恋愛(パッション)という根源に行き着くと論ずる。

 恋愛もゲームである。というと、恋愛がお遊びのように思われるが、「ゲーム」はそういう意味で用いているのではない。フランスの裁判所の入り口には「結婚前は両目で見て、結婚後は片目で見る」(欠点には目をつぶる)ということわざが掲げてあるという。離婚訴訟をやる人にもう一度考え直しなさい、といっているのであろう。恋愛がゲームというのは、難しくいうと「関係性のかけひき」ということ。あの映画「2001 年宇宙の旅(スペース・オデュセイ)」を作ったアメリカのスタンリー・キューブリック監督も、最後の作品はエロスをテーマにしている(アイズ・ワイド・シャット)。技術とか思想とかの精神の向う側にエロスの世界が広がるという考え方・感じ方があるとすれば、恋愛の現象もまじめに、というよりはまともに分析してみる価値がある。

 恋愛は人の心の動きであって、損得を超えたダイナミックスとも考えられる。だからこそ心の動きをかりそめに数字で表してみることはできよう。

 2 人を A 君と B さんとする。A 君は「東京モーターショー」(幕張)、B さんは「ディズニーランド」(浦安)に行きたいと思っている。しかも、できれば 2 人で一緒にである。さて、何が起きるだろうか。下の図表 5 を見られたい。カッコは A 君、B さんの利得または効用である。

 誰がこの図を見ても、(2, 1)と(1, 2)のどちらかが起こることは明らかであろう。A 君が B さんを連れてモーターショーに行くか、B さんが A 君をアッシー君にしてディズニーランドに行くか、いずれかである。どちらが起こるか、A 君と B さんの関係性から予測できる。もし A 君がリードすれば前のケースになる。B さんが自己チュウなら後のケースになる。さらに、もう一つ興味深いことがある。このゲームは先手必勝である。先にチケットを入手すればよい。つまり、チケットが早く売り出されている方が選ばれる。

 この 2 つの点(2, 1)および(1, 2)をよく見てほしい。モーターショーに連れて行かれた B さんが「私、車なんか関心ない。やはりディズニーランド行きたいわ」といって(幕張から浦安へ)独りいなくなってしまうことは考えられないか。そういう心の動きはあるが、ここではそれは起こらない、あるいは起こりにくい。表をもう一度見てみると、−1 になっている。(2, 1)の点から動かないのである。ゲーム理論では、両方とも「ナッシュ均衡点」といわれる。

チキン・ゲームと規制緩和

 最近は「チキン・ゲーム」を知っていると、少しクロウトっぽく聞こえて、カッコイイらしい。

 ここは「ゲーム」(ブリンクマンシップ)と呼んでよい。アメリカの西部の一本道、見通しもよい。そこを反対方向から 2 台の車(オープンカーとしておこう)がフルスピードで突進してくる。こういうスリル満点の命がけのゲームである。あわや激突と思ったが、一方が恐怖にかられハンドルを切って衝突を回避、助かったとほっと胸をなでおろしたが、そういう肝試しのゲーム(図表 6)。

 避けた方に「ハイ、あなたの負け。あなたいくじなし」との宣言が下される。いくじなし、臆病者、... ... これはアメリカ人の最も嫌うキャラクターで、チキン=ヒヨコ(Chicken)とは、ピヨピヨしていて、弱くて臆病の代名詞である。危機に勇気をもって立ち向かえ、というのは、アメリカの西部劇(「シェ−ン」など思い出すのは少し昔っぽいでしょうか)の変わらざるテーマである。しかし、この「勇気」も考えもので、両方が勇気をもてばまさに大破局だから、このゲームの本質は、

1) 他方に避けさせて、自分は避けたくない、
2) 両方避けなければ大破局(カタストロフィーという)となる、

というもの。さらに言い換えれば、共通の破局を避けるために必要な行動を互いに相手に押し付けあうというものである。

 これはジェームズ・ディーンという一昔前のアメリカの若きアイドルが出演した「理由なき反抗」にある命知らずのゲームである(映画では、2 名ともに崖に突進というストーリー)。このジェームズ・ディーン、本当に暴走して命を落したのである。このゲームは最近注目され、応用も多い。次にいくつか応用例を挙げておこう。

a) 2 つの核大国が互いに相手をひるませて屈服させようとし、両方ともそうせず、大核戦争で、「地球の終わり」という悪夢のシナリオ(核対決)。

b) 堤防が決壊しそうだが、その地点が 2 つの市にまたがっているため、両市とも相手の市に補修を押し付けあっているうちに、秋の台風シーズンとなり、ついに決壊。両市とも大被害という公共財供給の問題(公共財のシナリオ)

変わったところでは、
c) 電車の中で酔っ払いがイタズラを若い女性にしている。見渡すと運の悪いことに自分のほかにもう 1 人しかいない。互いに、アチラこそ注意すればよいのにと、心の中で「頼む!」とハラハラしているが、ともにそうできず、女性はひどい目に遭うところまでいってしまった(聖書の中の「よきサマリア人(びと)」と同じ状況)。

 ところで、このチキン・ゲームでは、一方が回避し、他方が突進するという組合せ(2 つある)が、つりあい点(ナッシュ均衡点)となっている。確かにこうなれば、双方とも自分の行動を変えようとはしないだろう。回避している側が突進に変える動機は全くないし(命がおしい)、突進してる側もわざわざ回避する必要はない(もう勝っている)。そこで、均衡点が2つあるので、自分が有利な均衡点に達しようとする。しかし、これを決める方法はない。あとは自分で工夫するしかない。

 一つの方法は変わっているが面白い。ハンドルを抜いて、相手に見えるように車外へ投げ捨てる。これで勝てる。相手が譲らざるをえない。自分を弱くしておくことが「強さ」に通じる。まさに、戦略のハイテクである。もっとも、このゲーム自体が意味のあるものか、またそこで「勝つ」意味があるのかという問題は残る。c)で危険にあっている女性を見捨てて逃げることが「勝つ」になるのか、ということとは別問題である。

 規制緩和も「チキン・ゲーム」の要素がある。少し考えればわかるが、「権力」を持つ側が自分から権力を放すなどは権力の本質に反し、自然というよりむしろ不自然である。そうでなく、実は、規制緩和は権力闘争なのである。宅急便(クロネコヤマト)の発案者は、おそらく郵便法違反スレスレのチャレンジであったろう。わずかの違反の摘発を恐れるなら断念するほかなく、そうなれば規制緩和にはならない。あくまでゴーなら、規制当局は違反(の疑い)の摘発か規制自体を緩和するか、判断を迫られる。宅急便が存在することは、後者、規制当局が追い込まれたことに他ならない。

歴史物は戦略に役立つか:意思決定理論から

 日本人が「意思決定」に関心があるのは、それが苦手であるからであろう。そういうビジネス書が多く、小説や時代劇、ノン・フィクション、ドラマの中でも「決断する人」の場面が出てくるのも、その強さが憧れだからである。「桶狭間の戦い」に臨む信長のような逆境に逆らう勇気と多少の無謀さと、精神的な強さの美談が強調される。しかし、実際の「意思決定」の状況は必ずしも悲劇的でも精神主義的でもない。経済的成功を収めた日本は逆境にいるわけでもなく、自らそう思うほど悲劇のドラマの配役を割り振られているのでもない。今は一人の指導者の決断や号令で事態が動く時代ではなく、組織の中の普通の人、流れや空気の中にいる人、さらに逆に成功におごる危ない脆い人の場面さえある。また、まじめ一本やりでうまくいかない人もいる。そこが現代の意思決定ではなかろうか。

 意思決定は自分の意思で行うこと。むかし、古代のイスラエル(ユダヤ)にダビデという無名の羊飼い少年がいた。隣国ぺリシテが小国ユダヤに強大な力で襲いかかり、その強将ゴリアテが一騎打ちを挑んできた。この雲をつく巨人の挑戦を受けて立つユダヤの武将は現れなかったため、ユダヤは滅亡に瀕した。誰かいないものか。そこへダビデが出てきた。敵・味方の物笑いの種になったことはいうまでもない。彼は構わず自分の羊飼い用の皮の投石器を工夫して、みごとにゴリアテを倒し、国を救った。ユダヤ建国のダビデ王である。後世、イタリアの有名な歴史家マキャベリ(1469~1527)はこれを教訓にしている。

ダビデはぺリシテの挑発者ゴリアテを相手に戦うべくサウル王に申し出た。そこでサウルは彼に勇気をつけるために、自分の武器を帯びさせた。ところがダビデはその武器を背に負うやいなや、これは自分には使えない、自分が持っている石投げと短剣で敵に立ち向かいたいといって、王の武器を返した。つまり他人の武器は背から落ちるか、重すぎるか、または窮屈だからである。(『君主論』第 13 章)

 マキャベリは援軍に頼るな、という意味でいっている。筆者はこれからヒントを得て、周囲の空気とか行きがかりとか助言や忠告、助力も大切だが、結局は意思決定はその人が自分で考えるものだ、と考えている。

 ひと口に意思決定といってもアプローチのしかたは広い。よくある英雄列伝やサクセス・ストーリーも人々を勇気づける上で時には楽しいが、そこは日本の歴史の描かれ方をみるとよい。成功者や英雄、善人の列伝でうめつくされている。挫折者、失敗者、悪人が入り込む隙はまずない。実際はその方が数も多く、失敗は成功よりも教訓的であるのに、それら英雄はほとんどが「情」の人であり、徹底して「智」の人は英雄でもその尊敬の序列が下がる。歴史小説は歴史そのままではなく科学でもないのだから、歴史から離れて色鮮やかに潤色することも許されるのである。

 ところで、マキャベリが、同書第 6 章で

つねに人は他人が踏んだ道を歩み、模倣によってその人達の行為に従って行くのであるが、しかも先人の道を完全に守ることはできない、またみずから模倣しているところのそうした偉大な能力にも達し得ないのであるから、思慮深い人はつねに偉人の行為を追い、優れた人々にならうべきものである。

と述べていることはわりによく知られている。これは前述した「他人の武器」のたとえとはうまくあわない。マキャベリも、ただまねをすればよいといっているわけではなかろう。今の日本の経営者も俗受けする歴史物を信じ込むというのでは進歩がない。第一、それは危険である。歴史文学の存在価値はもちろんある。しかし、歴史と歴史文学は異なり、その区別はハッキリさせておく必要がある。

「最近はやりの戦略論の論客のなかにも、戦略論が日本の国民になじみの薄いことに乗じて、派手ではあるが底の浅い理論を振りかざす風潮がある。論理が単純明快であるだけに結構俗受けしている。」

「・・・ は古典の常識をもてと大衆に教えを垂れながら、自分では古典の原典にあたらず、当今はやりの古典のさわりの抜き書きと解説を集めた安直な経営者向けダイジェスト本から孫引きしたのではなかろうか。」

「古典の全体の文脈のなかから自分の論理に都合のよい部分だけを抜き取って、原文とちがった意味に使用するのは古典の常識に反する。古典を知っている、ということは、古典の片言隻句を引用して解説し、その知識をひけらかすことではない。古典を充分に消化して自分の血肉化し、自分の思想と言葉で語ることである。」(大江志乃夫「日本の参謀本部」中公新書)

 日本に真の「マーケティング・サイエンス」が根付くのはこれからではなかろうか。

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編集部注
松原氏の著書『ゲームとしての社会戦略―計量社会科学で何がわかるか』は丸善ライブラリーから発売中。
同氏のウェブサイトは http://www.qmss.ne.jp/portal/

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