カルヴァンの神学は「福音主義」(端的に、聖書主義、信仰主義)といわれるものである。「予定説」ばかりが強調されるが、それはルターをはじめ中世末期のキリスト教思想家にある程度共通に見られた傾向であり、カルヴァンの著作を読めばわかるように、彼が「予定説」をことさらに教義の中心においた箇所を見いだすことは難しい。カルヴァン神学(つまりはプロテスタンティズム)の中心内容はいうまでもなく福音主義である。人間の自己の自覚(人間が有限・不完全であることの自覚)も人間の救いも、ただ神という基準によってのみ可能であり、地上の完全でも正しくもない権威、伝統・伝承、制度(具体的には教皇)によるのではない。なぜならあらゆる人間的なものは、どれほど正しく善に見えても不完全、有限、さらには無価値であるからである。このように人間を、個において、一人一人において、その存在の根底からあくまで徹底的に理性的に追求するという態度は、人間を「人の間」とする東洋の関係主義の伝統とは大きく異なり、この精神こそが西欧近代をはぐくむことになったのはいうまでもない。
人は、通常、社会学者ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によって、カルヴィニズムを近代資本主義の精神の原型として扱う。しかし、その精神の社会科学上の意味をアメリカ的な形態において取り上げるものであり、そこでカルヴァンの中心的な神学思想にじかに触れることはない。
といっても、それはウェーバーが文化の科学(Kulturwissenschaft)の意義や方法態度を厳しく反省的(批判的)に吟味したからであって、そうした以上当然のことである。ただし、ウェーバーの意図にもかかわらず、20世紀を、彼によって典型的に持ち込まれた価値相対主義による堕落の世紀と見る見方もある。そこは、ウェーバーの僚友であったトレルチによる対照的歴史認識が、この相対主義による危機の世紀にふさわしいのかもしれない。