キュリー夫人 Marja(Marie) Curie (1867-1934)


Curie.jpg (3837 バイト)ポーランド生まれフランスの女性物理学者・化学者。政治運動に参加して故国を追われ、フランスに亡命。物理学者ベクレルの影響を受け、ウラン鉱石の精製からラジウム、ポロニウムを発見し、原子核の自然崩壊および放射性同位元素の存在を実証。原子(核)物理学の最初の基礎を作るとともに、文字通り今世紀の原子力・核の時代を開く。夫ピエール・キュリー、ベクレルとともに、第一回物理学賞。後、金属(単体)ラジウムの単離に成功、ノーベル化学賞をも受賞。

コメント:

  1. 故国ポーランド
  2. 放射線障害の犠牲に
  3. ノーベル賞の顛末
  4. ジェンダー

その1

「ポーランド分割」という事件からもわかるように、地図から国名が消える経験もした悲劇の国ポーランドは、人類の歴史を変えまた人々に喜びと慰めを与えた、コペルニクス、ショパン、キュリー夫人という三人の偉人を生み出した国でもある。元素名「ポロニウム」も故国ポーランドに因む。もちろん、ショパンの「ポロネーズ」もポーランド風の意味。それにしても、「世界に貢献する」ということの真の意味を考えさせられる。

その2

そういう国に生まれたキュリー夫人の生涯には、どこか壮絶さ、ひたむき、純粋さが感じられる。少なくとも、理科の人なら想像できるのは、後世なら「放射線障害」として厳重なプロテクション(放射線防護)のもとに行われる放射性物質の分離作業と実験を、当然のことながら、当の発見者はその危険性を未だ知らずに無防備で行っていたことである。ドレスあるいはふつうの実験着のまま実験室に出入りし、大きな鉱石溶解用のカマをかき回す姿、放射性物質を宝石のようにポケットに入れて持ち歩く姿は、全く身の毛のよだつ光景である。キュリー夫人が倒れたのは放射線障害による骨髄性白血病(リューケミア)であった。もうずっと以前から、彼女の手の皮膚はかさかさ、ぼろぼろに赤向けむけしていた。さらにいえば、悲劇はこれだけではなかった。夫ピエールもパリ市内(ヌフ橋付近)で馬車で轢かれる事故で亡くなっている。

その3

キュリー夫人は2回も(物理学、化学の両賞)ノーベル賞を受けている(1903,1911)。ノーベル賞はまだ生まれてすぐの時であったが、彼女が「ノーベル賞」なる賞を嫌い、半ば軽蔑していたらしいことは知られている。実際、ノーベル賞が設定された時大きな社会的センセーションが起こっている。キュリー夫人は授賞式には出席せず、その欠席理由は「多忙」あるいは「病気」であったという。 たしかに○○○という人が戦争で大儲けをした後、罪ほろぼしに「○○○賞」という純粋に学問的な賞を創設しても、ただちに「それは大歓迎」とはならないだろう、という事情は理解できる。この○○○の中に誰が入ってもそれは同じである。ノーベルには、というよりは、この時期の科学者には「社会的責任」という考え方そのものがなく、科学者と利用者は別人格であると考えられていた。アインスタインに至って科学者と「戦争と平和」の問題が提起されたのである。彼は明確にノーベル賞は「罪滅ぼし」だと指摘している。

その4

以上の業績の他、女性としてのキュリー夫人に知られているのは、夫ピエール・キュリーの死後、その弟子P.ランジュヴァン(高名な物理学者、磁性体の物性論、ブラウン運動の確率微分方程式で知られる)との恋愛事件であった。これがもとで決闘まで起こっている。ところで、従来の「夫人」とか「女流(性)物理学者」という言い方はいかがなものか。「男性(流?)物理学者」とい言い方をするであろうか。とはいえ、しばらくはよく知られた「キュリー夫人」という言い方に従う。(本稿は一部1999.5.2朝日新聞「キュリー夫人」特集による。)

注) 岩波『西洋人名辞典』は、「マリー・キュリー」と呼称するが、「女流物理学者」と紹介している。


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