臨床医学と統計学

久保武士(筑波大学臨床医学系名誉教授)


 基礎医学の実践の場である臨床医学でも、臨床的な研究課題には事欠かず多数の臨床研究が絶え間なく続けられています。しかし、研究(実験)の場を制御することが基礎研究に比べて困難なため、真の意味で科学的な臨床研究を行うことは想像以上に困難です。

 例えば抗癌剤の薬効を評価するには確率(無作為)化した研究*でなければならない―とされています。その際、一二か所の施設だけのデータではデータ数が限られるので、どうしても多施設のデータを纏める必要があります。それには、確率化*してないデータはメタ分析*の対象にならないというわけです。しかも、現代は治療に先だってインフォームド・コンセント*が不可欠です。

 これらは日本の医療の現場にいる者にとって、およそ現実離れをした要請に思えます。

 どちらの抗癌剤を使うかを籤で決めることに納得する患者はあまりいません。どちらが良く効くか判らないのでそれを調べるために比較するのだ、と言っても、それでは私にとってどちらの薬が良いか先生ご自身はどうお考えですかと聴かれかねません。間違っていてもいいから先生が良いと思われるほうの薬を使ってくださいと言われる可能性も十分あります。医師と患者との間が望ましい人間関係にあるなら、むしろこのように言われるのが本当でしょう。

 二つの薬の長所短所を調べて相手に選択を迫っても、これ以外に選択肢はないのかとか、それぞれの薬に他の治療法を追加した選択はないのかと、患者の要請と質問は限りがありません。もしそれほどの質問をしないようなら多くの場合それは、疑問がないのではなく、質問しにくい雰囲気で無理やり納得させられている可能性を否定できません。しかも、これらの議論は患者に癌であることを告げ、その平均余命、他の治療法について十分説明したあとでの話です。

 世の識者や一部の医師がしばしば口にするインフォームド・コンセントも、統計学者が事も無げに言う確率化も日本人の国民性と相俟って、臨床研究にとっては克服し難い障壁にみえます。しかし、このような状況下における臨床医学研究こそ、ひとえに行動計量学的な問題に思えます。在り来りの方法論を機械的に適応して解決できるような、単純な問題ではありません。普遍性のある一般的な方法論の開発が困難で、問題毎に個別的なその問題固有の方法論上の工夫が必要であり、一筋縄でいきません。

 私の一方的な思い込みかもしれませんが、臨床医学研究の領域では行動計量学的なアクセスに限りなく多くのものを期待しています。

(行動計量学会会報・転載許可済み)

(注)

確率(無作為)化した研究 randomized study、確率化 randomization

複数の実験条件(実験群と対照群など)を設定して、統計的検定(有意性検定)によって因果関係を推定する際、個体差としての二次的変数(交絡変数)の影響を除くために、被験者をランダムに実験条件にふりわけること。

メタ分析 meta-analysis

同じ治療法に関する臨床実験が医療機関(研究機関)を越え、独立に、数多く行われる場合、その分析結果をデータとして分析を行う統計的方法。

インフォームド・コンセント informed consent

医療において患者が十分に説明を受けた後での承諾ないしはその一連のプロセス


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