現代においてもう一つ重要なのは、「専門」対「学際」という対立(ないしは区分)である。「専門」とは「学問的方法論:ディシプリン discipline」のことであり、専攻領域 specialities ではない。
個別の専門は学問としてそれなりに一定の有効性をもっているから、自然と専門化集団が狭い範囲で(まさに徒弟 disciples 制度のように)再生産されてゆく。こう言うと専門が悪いものであるように受け取られる可能性もあるが、そのつもりはない。専門分野にはそれぞれの問題もあるが、「専門」という考え方は学問にとって重要である。また実際、それほど専門というものは固定的でもないのである。これは後ほど触れよう。
しかし他方、世界で起こる現象や問題は専門分野別に生じるわけではないので、専門別に考えるのでは視野が狭くなり、学問として十分に有効な対応ができない。そうして「専門」を乗り越えようとして「学際 interdisciplinary」という考え方が出てくる。学際の「際」は international(国際)やアメリカの interstate(それぞれの州にまたがって、の意味)の inter である。
「学際」において、「専門」は消え去るのだろうか。Inter−AはA−Aの「あいだ」(横棒「−」)であり、Aのない、すきま学問になるのだろうか。非常に難しい問題だが、長期的には専門なしに「−」が学問として独立することはありうる、とひとまずは言えるだろう。しかし、Aがあってこそinter−Aもあり得る、専門あってこそ学際もあり得るという見解も根強い。学際を、「専門」が自らの内部だけでなく他の専門にも開かれており、対話可能であり、また協力可能であるところに見ようというものである。だから、「学際」だからといって専門を軽んじたりする必要はない。良い論文を書くためには地道な修練も必要である(4)。
(4) ただし、専門によっては「学際」を全く認めない専門もあるから、ここで述べたような事は一概には言えない。