V 批判するということ


(a) 「批判」とは

 若い人々が環境問題を人類の危機の問題として捉え、現実に目を向け、様々に論じ問題意識を持つのは良い事である。さまざまな社会的事象に対して人々の感性が鈍化している状況下で、これは称賛に値する。しかし、問題意識や社会批判がそのまま論文になることはあまりない。それどころかそうしたものを論文の中に並行移動し取り込むことはむしろ有害であることも多い。一般に言う「批判」と学問的な「批判」は異なるということを心得なければならない。

 学問の世界で事象や理論を「批判」するとは、まず非難や悪口でないことは、当たり前ながら押さえておくべきことである。理論の「批判(Kritik)」は、まな板に載せて吟味する、評価するという態度であり、良い(=賛意を表し得る)部分と悪い(=しからざる部分)を、それぞれ無私に評価する事である。諸要素はまずは別々に、そして次に総合的に評価される。たいていの理論は、およそ理論と認められているからには、何がしかの肯定できる要素を含んでいるから、反対するだけで終わるという批判は的を射ていないことが多い。同一対象のある部分を肯定的に評価し、他の部分を否定的に評価するということは、評者が対象(理論や著作)を十全に理解し、自分の中に主体的に再構成することなしには出来ないことである。「批判」とは高度な知的作業であり、批判自体がひとつの研究である。修士論文でこれが主張できれば見上げたものである。

(b) 批判可能性について

 逆にいえば、「批判され得る」ことが立派な内容を持つことの必要条件であろう。要するに「批判に値しない(批判すらされない)」ようなものであってはいけない。内容がくだらないということだけではなく、立派に見えても無内容ということもある。研究の世界ではこれがしばしば問題となる。つまり、批判されるべき内容が空なら批判しようもない。賛成の評価でも反対の評価でも。さらに言えば、反対の評価は批判不可能よりはより良い結果である。

 これを徹底させると、有名なポパーの「反証不可能性」となる。世にいう「グランド・セオリー(grand theory:大理論)」は全てを説明しているように見えて、何も説明しない。全てを説明する理論は、そんなものがあり得ない以上、理論ですらなく、何も説明できない。つまり「グランド・セオリー」というのは皮肉であり、パロディーである。ポパーは説明できない例や反論されるチャンスのない理論は理論の資格がないと断じた。彼の挙げた例はマルクス主義とフロイト学説である。環境問題の領域にも、ぎりぎりの考え方がある。「ガイア」思想、「地政学(ジオ・ポリティクス)」、極端な社会進化学説、社会生物学、優生学などが論争を引き起こしてきた。ただしこれらは「学問の自由」という異なった観点から論じられるのが普通である。

(c) 内在的批判と外在的批判

 「批判」は、それ自体が論文の内容になる場合と、しばしば自分の論を立てるための枕詞として否定的に行われる場合があるが、いずれの場合も「外在的」批判と「内在的」批判がある。外在的批判とは、批判者がもとの論者と立場を異にするための批判、内在的批判とは批判者が論者の立場に(仮に)立ったとしてもなおその論が自己矛盾的であることを突く批判である。たとえば、「○○は客観的な事実」であるとする論の、その○○の選び方が恣意的である場合には、客観性と恣意性の自己矛盾が指摘される。外在的批判は論者から「見解の相違に過ぎない」としてかわされることも多いが、内在的批判はそもそも論としてさえ成立しないという指摘であるから、論者を自減に導く強力なものである。