演繹法と帰納法について確認しておこう。演繹とは「一般から個別へ」の推論であり、帰納とは「個別から一般へ」の推論である。「動物は死ぬ」という一般ルール(大前提)から、「人間は動物である」を用いて、「人間は死ぬ」を導出するタイプのいわゆる三段論法は、演繹の典型もしくは演繹そのものと考えられる。帰納は「人間は死ぬ」「馬は死ぬ」「アリは死ぬ」……という特殊な経験の積み重ねから「動物は死ぬものである」という一般ルールを導くものである。果たして特殊から一般が導かれ得るものか。K. ポパーは、帰納自体が論理ではないと否定しているが、「実証的」な方法は帰納論理に基づいている。
これらの他に「アブダクション abduction」もある。これもある種の帰納であるが、個別ケースの典型から一般化を行うものである。Aの壷とBの壷には赤玉と白玉が入っているが、二つの壷で比率は異なる。ためしに両方から5個ずつ取ったら、Aから取った方に赤玉が多かったとする。そのときに、Aの壷の方が赤玉の多い壷である、と推定すること、などである。ケース・スタディーやフィールド研究で使われる論理である。
客観は端的に「ありのまま」を言い、主観は見えたさま、考えたさま、感じられたさまを言う。「客」は「客体」「対象」(object)を指し、「主」は「主語」「主体」(subject)を指す語である。
ことがらが客観的であるか主観的であるかの区別は簡単ではない。たとえば、コインで「表の出る確率は二分の一」というとき、それはコインの客観的性質を述べたものなのか、あるいは人からそのように判断された主観的判断なのかは区別し難い。「この野菜は農薬に汚染されている」というという言明についても同様である。さらに、「○○ということは客観的事実である」と言った時、かりに○○が真であったとしても、なぜその事実が取り上げられ発言されたかには主観的意図があるはずであり、言明の主観性と客観性を完全に分離する事は困難である。
「普遍 universal」とは「全てに対して成り立つ、適応され得る」という意味であり、「相対 relative」は「それぞれに対しそれぞれのありようがある」と言う意味である。「相対」の対立概念としては「絶対 absolute」もあるが、用語としては余り用いられない。
この二つは対立するというよりも、価値に対する対比的な立場を表している概念である。たとえば、人権概念を普遍的であるとする立場は、人権概念が無条件に世界中に適用されると考える立場である。これに対し相対的な立場は一般に価値的判断は適用対象の状況ごとの条件をつけてよいとする立場である。その代表的な思想である文化相対主義は、相対性の根拠に文化の多様性、多元性を求めている。価値に関して普遍性を前提する思想を普遍主義、相対性を前提する思想を相対主義というが、一般に、代表的な形態の普遍主義は絶対化の危険、相対主義は不可知論(確かなものは存在しないとする態度)に陥る危険を持っているとされる。
よく用いられる「相対化」とは、絶対的であると見る見方を一旦は離れてみる、という操作を指している。
一定の判断材料から判断が導かれるとき、判断の結論が既に判断材料に含まれている場合を「分析」といい、結論が判断材料の外部に出ている場合を「総合」という。「総合」は知識を増加させるが、「分析」は知識を増やさず明確にしたり確実にしたりする。
「物体には大きさがある」は「物体」の定義(性質)に「大きさ」の概念がすでに含まれており、言明がそれ白体によって真であることが判るので、分析的判断である。一方、「彼女は美しい」といった言明は総合的判断である。分析的判断は経験を必要としない(アプリオリな)判断であるが、カントによればアプリオリな判断は分析的とは限らず、数学の等式のように総合的である場合もある。総合的判断は経験的事実との照合があってはじめて成立する(アポステリオリ)ものである。こうした論じ方は、本来の論理学的な意味を離れて、現代の社会問題を取り扱う上での二通りの発想法に比喩的に移しとられている。知識をより分別し深めて行く「分析」の理念は理論の進歩を、そして「総合」の理念は学際研究やフィールド研究を支えるものとして、機能しているのである。環境を取り扱う我々の学問の上では、両者を適所に使い分け、相互に推進するかたちで両立させることが求められている。