サイパン陥落から東条内閣退陣へ

1944. 7


 日本はアリューシャン列島から東南太平洋、南太平洋を経てビルマ(ミャンマー)に至る長大な最終抵抗線を想定しこれを「絶対国防圏」とよんでいた。なかんずくサイパン・グァム・テニヤンなどのマリアナ諸島はここから日本本土を直撃できる位置にあるため、アメリカ軍の手中に落ちれば、次は硫黄島、小笠原諸島ときて、東京をはじめ本土は指呼(すぐそこ)の距離となる。従来から攻守ともに最重要な戦略的要衝と考えられていた。

 ガダルカナル失陥の 1943 年以降、防衛の前線は諸海戦ごとに後退に後退を重ねていたが、1944 年に入って敗勢は一段と悪化、7 月 7 日、日本軍の頑強な抵抗も力尽きついにサイパン島は陥落した。重要なことをつけくわえれば、これを想定してアメリカは超長距離・超重爆撃機 B29 の大量生産の開発を終えていた。行動半径 2000 マイル(3200 km)のこの B29 の出現によって、東北・北海道を除く本土はアメリカ軍の攻撃可能範囲に入ることになった(これ以降東京をはじめ本土主要都市はサイパン・グァム・テニヤンに配置された B29 編隊による激しい空襲をうけることになる)。

    

 このサイパン島陥落は当然政治的危機に直結した。みずから絶対とよんだ最終抵抗線も突破されたことは戦争内閣にとって大きな打撃となり、敗戦は時間の問題とする意見さえささやかれた。開戦以来 2 年半余事実上軍部独裁政権化していた東条内閣の無能と威信低下が明白になり、内閣はほどなく崩壊、事態は新段階を迎えた。以降戦局は、レイテ沖海戦、アメリカ軍の比島上陸、沖縄戦、広島・長崎への原爆投下・ソ連参戦など、最終段階に入ってゆく。


 以下はややくわしい記述である。
1944 年頃からアメリカ軍の作戦は、日本にとり太平洋上最大重要の戦略的意義をもっていたマリアナを指向してきた。4 月以降トラック基地に対する大空襲が繰り返され、5 月にはビアク島も失陥、6 月、ついにアメリカ軍はサイパンに来攻、その前哨戦たるマリアナ沖海戦並びに空戦において日本軍を降したのち、サイパン・グァム・テニヤンの諸島に上陸を開始、7 月はじめにはサイパン島が失陥したのをはじめ、これら諸島の守備軍は 7 月以降あいついで全滅の悲劇(「玉砕」といわれた)を繰り返した。

 マリアナ諸島の失陥によってアメリカ軍は日本の息を止めうる基地を獲得し、これにより戦争の勝敗の行く末は事実上完全に決した。というのも、ここをベースとして遠く日本本土の空襲も可能となるとともに、航空兵力と潜水艦をもって日本本土と南方諸地域との間の海上航路を遮断しうることとなったからである。南方諸軍も本土から孤立したのみならず、戦略物資をほとんど大部分南方に仰いでいた日本にとって、マリアナ失陥は戦争経済上死を意味した。失陥は東条内閣倒壊の契機となるとともに、1944 年(昭和 19 年)第二四半期以降の物資動員計画も完全に混乱状態となり、軍需生産は一路崩壊に向った。

 このサイパン島失陥を契機として、重臣および海軍による首相更迭工作が行われ、1941 年の開戦以来さしもの強固さを誇った東条内閣も、みずからの延命に失敗し、1944 年(昭和 19 年)7 月 7 日ついに倒壊した。これにつづいたのは小磯国昭(予備陸軍大将・朝鮮総督)と米内光政(元首相・海相・予備海軍大将)の協力内閣であったが、この内閣も無能に終わり、やがて鈴木貫太郎(海軍大将・侍従長)内閣にバトンはひきつがれた(1945 年)。
  * 以上 3 項 : 笠原・安田編『資料日本史』山川出版社に依拠した。

 平和な今日ではこれらの諸島は観光地として人気があるが、これらの島々が 60 年近くも前日本とアメリカの間の決戦の地であったことに関心をもつ若い世代は少ない。特に、テニアン島(右)は広島あるいは長崎への原爆投下機の発進地であった。 搭載地点には今もその記念碑が建っている。

グアム サイパン テニアン

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