そこで解放奴隷たちはもうそれ以上、死ぬ時が来たということを隠さなかったので、ネロは自分のために穴を掘れと命じ、丁度合う寸法を取らせるために地面に横わった。しかし掘返された土地を見ると恐怖に襲われた。脂っこいネロの顔は青ざめ、額には朝の霧のような汗の露のような汗の玉が出ていた。又躊躇した。慄えていながら役者のような声で、時はまだ到らないと明言して、又引用句を始めた。仕舞に自分を焼いてくれと頼んだ。『何という芸術家が滅びるのか。』(クアリス アルティ フェクス ペレオ.)と感嘆した面持ちで繰返した。
そうしているうちにファオンの急使が、元老院は既に宣告を発し、『父殺し』は昔からの習慣に従って罰せられるという知らせを持って来た。
『その習慣とは何か。』とネロは眞白になった唇で訊いた。
『頚を首枷(V 型に合せた二枚の板)に挟んで死ぬまで笞で打ち、ティベリス河に屍体を投げ込むのです。』
とエパフロディトゥスが荒々しく答えた。
するとネロは外套の胸のところを開けた。
『では今だ。』と空を見て云った。そうしてもう一度繰返した。
『何という芸術家が滅びるのか。』
丁度その時馬の足音が聞えた。それは兵士たちの先頭に立って百人隊長が赤髯の首を求めに来たのである。
『急いで。』と解放奴隷が皆で叫んだ。
ネロは刀を頚に当てたが、恐々掌で刺しただけで、刀を突込む勇気ははさそうに見えた。
すると思いも懸けずエバフロディトゥスがネロの手を押したので、刀は欛まで入り、上の方を向いたネロの眼は恐ろしく大きく慄えていた。
『御命は無事です。』と百年隊長は入って来て叫んだ。
『遅かった。』とネロはかすれ声で叫んだ。それから付け加えた。
『これこそ誠だ。』(ハエク エスト フェデス。)
瞬く間に死がネロの首を捉え始めた。太い頚から出る血は、黒い流となって庭の花に掛かった。両足は地面を打ち始めて―-息が絶えた。
忠実なアクテは次の日ネロを立派な布で包んで香に充ちた焚木の山で焼いた。
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こうしてネロは、旋風か暴風か火事か戦争か疫病が去るように去り、ペテロのバシリカは今に到るまでヴァティカヌスの高みから都と世界を支配している。
昔のポルタ・カペナの傍には今日も小さな礼拝堂が立っていて、幾らか摩滅した銘にはこう読まれる。『クォ ヴァディス ドミネ?』
注)ペテロのバシリカ : ペテロはイエスの第一の弟子。宣教の最後に帝国の首都ローマにて逆さ磔(はりつけ)の刑で殉教。生前のイエスのことばによりペテロは第一代のローマ教会の統括者(ローマ法王)となる。「バシリカ」は古代ローマのキリスト教建造物の一般的形式。ここでは、ヴァチカン宮をさす。
クォ・ヴァディス・ドミネ?(Quo vadis Domine) : Where do you go, my Lord?(主(しゅ)よ、どこへ行きたもうや)の意。弾圧の苛烈さに耐えかねてローマを去ろうとするペテロにイエスの幻影があらわれ、では私が行って再度十字架にかかろうと、ローマへ戻るイエスに、ペテロが語りかけたことば。ペテロも翻意して踵を返すが、事情を知らない従者が主人にペテロに問いかけたことばでもある。