レイテ沖海戦(比島沖海戦)

1944. 10. 24

 

アメリカ軍比島*上陸へ

連合艦隊の主力壊滅

南方方面制空制海権、アメリカの手に

日本戦時経済崩壊へ

*比島 : フィリピン諸島をさす。当時は英語をつかえず「比律賓」と表記。


 サイパン島陥落後 3 カ月の 10 月 17 日、アメリカ軍は いよいよフィリッピン 諸島(レイテ湾東方スルアン島)へ上陸を開始した。その数は 20 万の多数にのぼっ た 。このフィリッピン上陸をかねてより予想していた日本は、定められた計画に従って陸海統合の極度の戦力集中でこれを絶滅する作戦(作戦名「捷一号」)を発動した。これは敵空母(航空母艦)および輸送船を比島近海に殲滅することによりアメリカ軍の上陸の阻止を企ったものである。要するに、海軍にとっては、残ったなけなしの力をふりしぼっての最後の「なぐりこみ」決戦である。
 結果は、戦艦「武蔵」を初めとして、空母 4 隻、戦艦 3 隻、重巡(重巡洋艦)6 隻など 29 隻を失う大敗北であり、生残ったためぼしい戦艦は「大和」のみとなった。連合艦隊は事実上壊滅、日本の海軍は実質上失われ、海軍力という見地からは日本はほぼ丸腰となった。 これによって、戦争経済は一路崩壊の一途を辿ることとなったのである。
 この後、戦局は本土最終決戦の他なすすべを失い、1945 年になると日本本土に対する空襲はいよいよ激しさと頻繁さを加え始めた。指導者層にも徐々に動揺が拡がり、この年の 2 月には、重臣近衛文麿が共産革命が近づくのを予想し天皇に単独で会い、早期の終戦・講和を勧める(当時は非常に危険な行為であった)いわゆる「近衛上奏文」を提出するという事件もあったが、これは支配体制の危機感と焦燥を如実に表すものであった。
 そして、4 月いよいよ終わりの始まり「米軍沖縄上陸」を迎える。

    

 「連合艦隊」は日本の海軍の象徴、したがって太平洋戦争の象徴、そしてこの時代の日本人の精神状況の象徴であっ た。写実の筆を曲げず世に阿(おもね)らなかった文学者大岡昇平の『レイテ戦記』(上中下、中公文庫)は、克明な筆致を以ってこのフィリッピンの戦闘の凄惨さに迫るが、海軍の時代精神を次のようにまとめている。

軍艦もまた民族の精神の表現といえる。「大和」「武蔵」は、わが国の追い着き追い越せ主義の発露といえる。排水量 72,000 トン、46 センチ主砲 9 門は世界最大の威力である。仰角 45 度で発射すれば、富士山の 2 倍の高さを飛んで、41 キロ(東京より大船までの距離)遠方に達する。その他多くの日本造船技術者の知恵をしぼって建造されたもので、その性能は極度の機密に守られていたので、伝説的畏敬と信頼を寄せられていたのであった。
 しかし 200 カイリの攻撃半径を有する空母に対しては、その巨砲も持ちうる余地なく、一方的な攻撃を受けて沈まなければならなかったのである。起工当時海軍内部にも山本五十六や大西滝治郎等いわゆる「航空屋」の反対意見があったが、主力艦対決主義は日本海海戦以来の伝統であり、その偏見の下には無力であった。空母中心に艦隊を組み、戦艦は主砲以外はすべてを空母擁護用の高角砲に切り替えたアメリカ海軍の柔軟性に屈したのである。

戦艦「武蔵」
レイテ沖海戦で沈む

 壊滅した連合艦隊が海軍力の中核であったということは、現実的意味も持っていた。南方からの輸送ルートの確保なくして戦争はできず、制海権が日本を死命を制したからである。そもそも、南方資源の確保こそ日本をこの太平洋戦争にし向けた大きな背景であった。だから、連合艦隊が敗北潰滅したこの日は、ことばの実質的な意味において、日本そのもののの敗戦が決定的になった日でもあった。
  考えてみれば、「太平洋戦争」は太平洋での戦争であり、したがって海軍力による海軍の戦争であった。海軍なくして太平洋戦争は成り立たず、開戦の決定は海軍が請け合い、戦端(真珠湾=パール・ハーバー)も海軍によって開かれたのであった。戦争全体において海軍が果たしたこの積極的役割は、今一度仔細な歴史的検討が必要である。

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