東京大空襲

1945.

3.

10

4.

13, 14, 15

5.

24, 25

東京の空、凄惨な炎の光景に


太平洋戦争(第二次世界大戦)の末期 1945(昭和 20)年、アメリカ軍が長距離重爆撃機 B29 編隊などによって首都東京市に対し加えた一連の大規模爆撃。12 万人以上の死傷者、100 万人以上の罹災者を出した 3 月 10 日の城東地区(墨田・江東区)大空襲は特に記憶される。焼夷弾(注)による大規模火災に起因する被害(下表参照)が大部分を占め、緒戦から含めて 50 回以上の空襲により、東京はほぼ完全な焼け野原、文字通りの廃墟と化した。

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 もちろん空襲をうけたのは東京だけではない。日本はすでにレイテ海戦で事実上海軍力を喪い、防空能力は取るに足らないものであった。文字通り全面的な本土空襲であり、全国の主要都市は 6 大都市はもとより、少数の例外(京都、奈良など)を除き、北は北海道釧路・帯広から南は西之表まで 10 カ月に渉って連続的あるいは断続的に軒並み空襲の被害を受けた。広島・長崎の原爆投下はもっとも悲惨なケースのひとつである。爆撃機の発進地は、もっとも初期は中国本土の成都、サイパン陥落後はグアム・サイパン・テニアンなどのマリアナ基地、後にはさらに本土に近い硫黄島、また北日本に対しては海上機動部隊からの艦砲射撃が加えられた。国家意思決定の中心である首都東京が空襲をうけ壊滅的被害を受けたことは、当局の戦争宣伝にもかかわらず、戦争がいよいよ究極的最終段階までに達したことを示し、国民も敗戦がそれほど遠くないことを膚で感じることとなった。なお、戦後、空襲被害の記録を保存する民間の会が全国的に組織され、ときおり資料展示会なども催されている(写真は 1985 年のもの)。

「軍国主義者の戦争遂行能力と抗戦意志を挫く」という戦略爆撃の思想にもとづくが、日本の戦争責任とならび、非戦闘員(市民)に対する無差別攻撃として戦争責任を問う考え方もある。

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米軍機により上空から大量に撒かれた宣伝ビラ。戦意を喪失させるとの理由から拾うこと読むことは厳重に禁止されていたが、一方的とはいえ戦局の情報に国民が接する機会でもあった。

注) しょういだん。原油、重油、揮発油、テルミットなどの燃焼剤と炸薬を入れた砲弾あるいは爆弾。落下地点の周囲に飛散して同時多発の火災源を作るので、これを消すのは非常に困難であった。東京大空襲では大量に使用された。「焼夷」とは焼き払う、の意。


代表的な東京大空襲の被害データ/警視庁調べ

  主要地区 投下焼夷弾 死傷者 被害家屋 罹災者
昭20年 3月10日 城東地区(浅草、本所、深川) 48,194 124,711 268,358 1,008,005
4月13/14日 城東・城北地区及び現千代田、文京、豊島、新宿 4,553 135 160,539 547,690
4月15日 城南地区 4,856 124 55,151 224,367
5月24日 都内、都下など全域 74,617 2,096 64,155 213,120
5月25日 同上 多数 5,319 157,039 624,271

出典:『東京大空襲』

付:太平洋戦争に於ける一般空襲被害の概況(制作中)


コンパクト年表