松本清張『日本の黒い霧』

各回の冒頭部分


上巻:

1) 下山国鉄総裁謀殺論

 昭和24年7月5日(死体発見6日)に発生したいわゆる下山事件は表面上はまだ解決していない。警視庁では自殺とも他殺とも明瞭な線を公表しないうちに捜査は一応打ち切られてしまった。
 警視庁がどのような理由で捜査を打ち切ったかは、その後半年ばかりして『文藝春秋』及び『改造』に発表された「下山事件捜査最終報告書」(下山事件白書)によって察しがつく。つまりこれによると、初代国鉄総裁下山定則氏は「自殺した」という結論になっている。

2) 「もく星」号遭難事件

 昭和27年4月9日午前7時34分、日航機定期旅客便福岡板付行「もく星」号は羽田飛行場を出発した。折柄、空には密雲垂れこめ、風雨が頻りであった。この機は離陸後館山上空を通過したのち、離陸20分後に消息を絶った。

3) 二大疑獄事件

 連合軍総司令部民政局(GS)の次長であったチャールス・ケージスと恋愛関係を噂された鳥尾夫人が、その手記に、次のような意味のことを書いている。
 彼女の夫は、当時、日本自動車株式会社の重役であったが、会社の資金繰りが相当苦しく、その窮状を夫人が、ある日、遊びに来たケージスに話した。すると、ケージスは・・・

4) 白鳥事件

 昭和27年1月21日の午後7時半ごろのことである。札幌市内を蔽った雪は、暮れたばかりの夜の中に黒く吸い込まれていた。
 南6条16丁目辺りを2台の自転車が走っていたが、突然、銃声が聞こえると、その1台は雪の上に倒れた。もう1台の自転車はそのまま、300メートルくらい進んで、やがて闇の中に消えた。折からラジオは「3つの歌」を放送していた。

5) ラストヴォロフ事件

 昭和29年1月27日のことである。駐日ソ連元代表部のザベリヨフ部員が東京警視庁に出頭して、同代表部員ジュリー・A・ラストヴォロフ二等書記官が去る24日以来失踪したので、至急に行方を調査して欲しいと申入れた。これには、本人の捜索に必要な人相書と写真を添付し、若干の説明をした。

6) 革命を売る男・伊藤律

 伊藤律の除名は、日本共産党の六全協(第6回全国協議会)の席上で、昭和30年7月28日、満場一致で再確認された。そのとき、党の発表した律の罪状は、一般紙にも載っているので、周知の通りである。

下巻:

7) 征服者とダイヤモンド

 残暑のきびしい昭和20年9月30日の午後3時すぎのことである。大蔵次官山際正道氏に、GHQのESS(経済科学局)キャップ、クレーマー大佐から電話がかかって来た。用件というのは、今夜8時ころに日本銀行へ監察に行くというのである。
 ところで、ただの銀行監察というのに、クレーマー大佐は、物々しく装甲車に兵士を乗せ、約三十名を一グループとして、日銀を取り巻いたのであった。

8) 帝銀事件

 帝銀事件の犯人は、最高裁の判決によって平沢貞道に決定した。もはや今日では、いかなる法律手続きによっても彼の無罪を証明することは不可能である。言い換えれば、法務大臣の捺印があれば、いつでも彼は絞首台に上がる運命にある(もっとも再審請求が弁護人側から出されているが、必ずしも刑の執行を拘束しない)。

9) 鹿地亘事件

 昭和26年11月25日午後7時ごろ、藤沢市鵠沼に転地療養していた鹿地亘(かじわたる)は、江ノ電鵠沼付近の道路を散歩中、二台の米軍乗用車によって挟まれた。次に、車から降りた5, 6人の米軍人の手で車内に連れ込まれ、手錠を掛けられ、白い布で目隠しされたまま拉致された。いわゆる鹿地亘事件の発端である。

10) 推理・松川事件

 松川事件における広津和郎氏の観点は、被告たちの無罪を立証するために重点が置かれた。従って、その資料は殆ど裁判記録のみに限られているようである。被告の無罪を証明するために、その資料を法定記録に限定し、その中から矛盾や不合理を抽出して真実の帰納を試みたことでこれは正しい方法である。そのために、広津氏は意識して法定記録に出ないものや、単なる噂にすぎないものは排除している。これも当然の態度である。

11) 追放とレッドパージ

 日本の政治、経済界の「追放」は、アメリカが日本を降伏させた当時からの方針であった。1945年8月29日に、アメリカ政府はマッカーサーに対して「降伏後における合衆国の初期対日政策」という文書を伝達し、さらに同年11月3日付で「日本の占領並びに管理のための連合国最高司令官に対する降伏後初期の基本的指令」と題する文書を発した。GHQは、この二つの文書に基づいて占領政策を実行に移すことになったのである。

12) 謀略朝鮮戦争

 (承前)朝鮮戦争はケタはずれに大きいし、必ずしも、このシリーズの最終に書くべき課題ではないかもしれない。
 しかし、これまで書いてきた一連の事件の最終の「目的」は朝鮮戦争のような極点を目指し、そこに焦点を置いての伏線だったということもできる。もっとも、米軍は最初から朝鮮戦争のような極点を「予見」したのではあるまい。
 在日米軍は、その占領初期の段階では、少なくとも日本民主化の忠実な使徒(もちろんアメリカの利益の枠の中で)であった。それが変貌したのは極東情勢の変化からである。1948年ごろから、そろそろ、この「予見」がはじまったといってよい。

13) なぜ『日本の黒い霧』を書いたか


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