文明が衰亡するとき


日本が滅びることはない

 ポーランドの作曲家ショパン(1810-1849)が名声を得たのは、パリにおいてポロネーズ、マズルカにその民族的ロマン主義を表現し、まず亡命ポーランド人の中で知られたからであった。同じくポーランド出身の科学者マリー・キュリー(1867-1934)も、最初独立の政治運動に関わってパリに亡命してから、学者としての活躍がはじまったのである。つまり、世界史にいう「ポーランド分割」である。18 世紀中葉以降ポーランドは列強の間にあってその一部あるいは全部が分割され、歴史上長期にわたり地図から全く消えたことがある。こういう激烈なケースでさえ、ポーランドの領域は残りそこにポーランド人もいたのである。そういう意味においては、「領域性」のゆえに国家は滅びることはない。だからこそ「歴史」をもつのである。また、「国家」というのは人間のわりに安定した存在のしかたなのである。他方、ローマは現に「滅びた」のであるから、見方を変えれば、「滅びる」ものはまた国家とは別ものということになろう。

「大変」といわれているのは

 ところで、この冬あるどちらかといえば右よりの総合雑誌が「日本大変」という特集をしていた。一体何が「大変」なのか、読むと 10 人の経済学者がデフレ脱出策を議論している。甲論乙駁の議論も所々有益な点もあったが、よくあるように全体として言いっぱなしで結論を得ぬまま終わっている。それでも、私として一つだけ確かな結論らしきものは得られた。デフレの克服は緊要であるが、デフレは結果で原因ではないから、うまく行っても、問題の基本形は片づかず、「構造」の問題は依然残る。こういうことである。実際のところ、デフレが克服されて日本経済がかつての繁栄を取り戻すようなイメージを描いている人は非常に少なく、そこはかとない崩落感が日本を包んでいる。

イスタンブール(旧ビザンティウム、コンスタンチノープル)

一千年以上も東方に雄飛した東ローマ帝国の首都。1453 年オスマン・トルコの攻略の前に陥落、「ソフィア寺院の十字架の墜落に全西洋が震え上がった」(ツヴァイク)

 政治家のいう「構造」とか「構造改革」は経済の範囲内である。しかし、学問で「構造」というとき、経済以前の何らかの前提条件や歴史的・文化的基盤をさしている。にもかかわらず、そこの問題を経済にフレーミングして(そのような問題として)皆が論じるところに、今の「日本」についての言説や思考の著しい特色がある。われわれは「奇跡」といわれる経済の成功をなしとげ、成功体験は人の記憶に残る。成功したリーダーが偉くなりトップになると、自信のゆえにそのやり方を変えない。トップとなれば変えねばならないとはいうが、実際は何も変えない。成功の病である。政治学者高坂正尭も、ローマおよびベネチアの例証を引きながら、成功は人を傲慢にし、歴史の中で「成功の中にこそ衰亡の種子がある」ことは多いという。

高坂正尭『文明が衰亡するとき』(新潮社)

「日本」という一世を風靡した文明のかたちは衰亡

 ここで思いきって、東洋の一隅で急速な近代化を進め、百数十年の短期間に経済の成功によって一大パワーに上昇した「日本」を「文明」の一つのかたちと見てみる。このような見方には問題もあるし内心の抵抗も感じるが、仮に学問としてそう見てみよう。すると、文明には興隆と衰亡があるという当然のことに気づく。「日本」という国家が滅びることはほとんどありえないが、今まで日本にその姿を与えてきた文明としての「日本」はおそらく衰亡していくであろう。そのプロセスは単純ではないし、原因や兆候も内外にさまざまあろうが。

 まず内的には、最大の問題の一つとして、人口高齢化。出生率の低下がこの直接原因である。生きることの喜びよりは苦労の多い社会ができあがってしまい、次の世代を作るという本源的な希望の行為も抑制される。これは日本の成功の非常に大きなコストである。この人口高齢化の原因はあまり学問的に追究されていない。

 他方、外的には、日本は戦争(アメリカ、中国、アジア諸国との太平洋戦争)から 50 年経っても、今でもなお戦争責任の総括をはじめとする歴史問題の克服ができず、アジアとの関係には常に大きな制約がかかり、行き詰まりの様子も見える。「克服」とは自らに対する「克己」と「征服」、つまり自らの努力によって問題を解決しうち勝つこと。本来は前向きの問題なのだが、愉快でない課題であるため世論をはじめ相当の国民的次元のパワーが必要である。今までこの怠慢のコストは相当大きく、アメリカは日本のかわりに中国、韓国を自然なパートナーと見つつあることも広く指摘されてきている。もちろん、これに反発する日本の軍事大国化はさらに自らを追い込むことになろう。

 ただ「衰亡論」は複雑であり衰亡も一直線ではない。「解き難き問題をかかえ、力に衰えを示しながら、長期にわたって生きながらえること[文明]も少なくない」ともいう(同)。現在の我が国はかなり微妙、複雑な段階にさしかかっている。

 日本についていえば、終わるのはやはりいままでの総体としての「日本システム」の文化であろうか。これはどうもそうらしい。「総体として」と言ったのは何も政治・経済だけではなく、それを前提とし、それの上に、それによって考えられている文化や思想も含まれる。この文化や思想の中には美しいものもある。しかし、それは我々が今美しいと思っているだけのものもあり、他にも美の形はありうる。また、日本システムの防衛装置 (要するに、イデオロギー)になっているものにも影響は及ぼう。一言で言えば、従来の体制が衰亡していくのである。

 いまもう「戦後」という言い方よりは「9.11 以後」なのだとよくいわれる。ただ、9.11 以後の何なのか、はっきりいって、いいことなのか悪いことなのか、といわれるてもまだはっきりしない。そもそもこの「以後」という言い方で、なにか新しいもの定義できるとは思われない。ただし、「何か」が滅び「何か」が立ち上がるのであろう。

ローマ皇帝ネロの最期の至言

 これで思い出すのは、やや迂遠で象徴的だが、あのローマ皇帝ネロ(37-68)の最期である。歴史上「暴君」で知られるネロも最初のうちは、側近として哲人セネカを登用して善政を布いていた時期もあったが、よく知られるように、なぐさみでローマを焼き当時新興のキリスト教徒に責任転嫁したとされるなど、次第に放埒となり、元老院と対立、ついに追われて解放奴隷宅で自殺に追い込まれる最期をとげる。

自らの死の意味を気にした尊大な皇帝

 最期にあたり、ネロは『どんな芸術家が滅びるのか』と 2 度周囲に尋ねたとされる。自分の死以後ローマは残らないだろう、と。ネロは芸術を愛好し、ギリシアを旅行し、自分の死を自分がそう見なしたローマ文化の死と等しいとしたのであろうか。自分の肉体の死をただちに文化の滅亡と見るのはいくら権力者とはいえ尊大だといえば、いえなくもない。であるが、そこが何ともネロらしく、見方をかえれば「ローマ文化」についてもいえているところがある。なぜなら、ネロが自分「以後」を気遣う最期のことばは結果的に正しかったからである。イェーリングの有名な言葉(軍事力、キリスト教、ローマ法)を引くまでもなく、旧きローマは滅び、ローマを真にローマたらしめ後のヨーロッパ文明を築いた大きな力によって、ローマは包み込まれていく。キリスト教の発生と興隆である。シェンキェヴィッチ『クォ・ヴァ・ディス』は、その時代のキリスト教(原始キリスト教)が苛烈な弾圧の下で、野火のごとく次第にローマ帝国のすみずみや宮廷を含む諸階級にまで拡がっていく様子を書いた物語で、文字通り「ネロの時代の物語」との副題がついている。


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