アリストテレス『オルガノン』

分析論前書

三段論法も出現

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 第1章概説へ


 まず〔一〕最初に言明しておかなければならないのは、この研究がなにをめぐってなにを考察するのか、すなわち論証をめぐって論証による知識を考察する、ということである。

 次に〔二〕定義して明らかにしておかなければならないのは、〔1〕前提〔論者が前に提立する命題〕とはなんであるか、〔2〕項とはなにか、また〔3〕推論とはなにか、かつまた〔4〕完全な推論とはいかなるものであり、不完全な推論とはいかなるものなのか、であり、さらにその次に〔5〕全体のうちにおいてあるとか、ないとか、すなわち、これが全体としてのそれのうちにあるとか、ないとか、とはなんの謂であり、またわれわれが、〔それがこれの〕すべてについて述語されるとか、なにひとつについても述語されないとか、言うのはどんな意味であるのか、である。

 さて〔1〕〔イ〕前提とは、まず〔a〕なにかあること〔甲〕をなにかあるもの〔乙〕について肯定しまたは否定する陳述〔言表方式〕であるが、また〔b〕この陳述は〔i〕全称〔全体についての、普遍の〕か、〔ii〕特称〔ある部分においてだけの〕か、〔iii〕不定称〔全称とも特称ともいずれとも決定できないの〕か、である。ここでわたしが〔i〕全称と言うのは、〔甲が乙の〕すべてに・ある〔述語である、述語となる〕〔全称肯定〕か、なにひとつにも・ない〔述語でない、述語とならない〕〔全称否定〕か、であり、〔ii〕特称と言うのは、〔甲が乙の〕なにかある部分だけに〔述語で〕あるか、なにかある部分には〔述語で〕ないか、あるいは、〔乙の〕すべてに〔述語で〕あるわけではないか、であり、〔iii〕不定称と言うのは全称とか特称とかをぬきにして、ただ〔甲が乙に述語で〕あるか、ないか、を言うのであって、たとえば、「反対対立しあうものどもには同一の知識がある」とか、「快楽は善ではない」とかのごとくである。

 ところで〔ロ〕〔a〕論証の前提は、〔b〕〔問答法による〕弁証の前提とは異なっている、すなわち〔a〕論証の前提は、矛盾〔する両命題〕の一肢を〔真なるものとしてとりあげて〕容認することであるが(というのは論証するひとは〔自分の前提を〕尋ね問うているのではなくて、〔自明の真として〕容認するのだからである)、〔b〕〔問答法による〕弁証の前提は、矛盾〔対立しあう両命題〕のいずれかを問うことなのである。

 以上のことどもを解明しおわったのち、以下、なに〔いかなる項ども、いかなる前提ども〕によって、またいかなる場合に、またいかなる方式で、すべての推論は成立してくるか、を論じよう。またさらに後では、論証について論じなければならない。しかし論証についてよりも先にまず推論について論じなければならないのは、推論の方が論証よりも広く一般にわたるゆえである。けだし論証は一種の推論であるが、推論はそのすべてが論証というわけではないからである。

 さて〔一〕三つの項が相互に、最後の項〔終末項、末項〕は全体としての中間の項〔中項〕のうちにおいてあり、かつ中項は全体としての最初の項〔初項〕のうちにおいて〔1〕あるかまたは〔2〕ないかのいずれかであるとの方式で聯関しあっているときには、必然のこととして両端の項について完全な推論が成立する。ここでわたしが中項と呼ぶのは、それ自身も他〔初項〕のうちにおいてありながら他〔末項〕がまたこれのうちにおいてあるものであって、位置においても中間となっているもののことである。これに対して両端〔項〕というのは、それ自身が他〔中項〕のうちにおいてあるだけのもの〔末項〕と、他〔中項〕がそれのうちにおいてあるだけのもの〔初項〕とのことである。

 すなわち〔1〕もしAがすべてのBについて、かつBがすべてのCについて述語されるならば、必然のこととしてAはすべてのCについて述語される。けだし「すべてについて述語される」とわれわれが言う意味はさきに述べた通りだからである。