カンディンスキー<<青いライト・グレー>>1941年
目次
世界を「考える」だけではいけないのか
『ソフィーの世界』260万部の意味するもの
人が自分自身を知ることの歴史
詭弁とはマスコミのことだった
「アカデメイア派」家元
三代目アリストテレスの役割
「実践」の難しさと恐ろしさ
ソクラテスは人類のエリートなのか
相関社会プログラム旧稿(一)
次の2つの文章の意味の違いがわかるだろうか。多分わかる人が多いだろう。
A「哲学者たちは世界をさまざまに解釈しただけであり、重要なのは世界を変革することである」
B「哲学者たちは世界をさまざまに解釈しただけである;しかし重要なのは世界を変革することである」
AがオリジナルでBはAに手を加えたものである。Aは歴史上有名な経済学者・哲学者のもので、ただ手帳に書きつけられていたのを、その死後協働者であった友人が「こうではなかったか」と推測し手を入れたものである。ところで、多くの人が見るところ、あきらかにBはAを曲げた内容になっている。
Aは、世界をさまざまに解釈するだけでは十分でなく、世界を変革することを考えねばならない、との意味であるが、BではAにない反対の接続詞「しかし」(原語ではドイツ語aber)が挿入され、セミコロン(;)で前後が分けられている。つまり「解釈」ひいては「哲学者」にマイナスのイメージや意味を与える意図がこめられている。ただ、これは文章の文字通りの読み方を論じただけなので、仮にもしAの作者がもともとBのつもりで述べたなら、BはAをねじまげたどころか、意味をよりはっきりさせた功を認められるべきだろう。いずれにせよ、問題はAの哲学、世界観の中心を探ることに展開してゆくが、ここではこれ以上は述べず後にふれよう。ちなみにAはマルクス(1818−1883)、Bはエンゲルス(1829−1895)の文章である。
ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界』という哲学史の本が全ヨーロッパでとぶように売れ、日本でも翻訳(池田香代子訳、日本放送協会 1996)が発売以来9ヶ月の時点で150万部に達し、最終的に260万部まで行ったという。原題は「哲学史の物語」であるが、ソフィーというごくふつうの14才の少女を主人公とする「哲学史ファンタジー」として作られている。哲学の歴史が語られているにもかかわらず、仕立てはミステリー小説で読む人は引き込まれる。ただし、サルトルがあるのにハイデガーはなく、バートランド・ラッセルがあるのにヴィトゲンシュタインがないという奇妙な材料選択に対する批判は哲学者からありうるし、また全体的に北欧のプロテスタンティズムの雰囲気がただよっている点も、宗教ぎらいの哲学者は気にするかもしれない。この著者ゴルデル(高校の哲学の先生)の思想内容はおそらくヨーロッパの社民主義に近いといってよいであろう。
しかし、面白いのは、日本でこの『ソフィーの世界』を買った人々の中で、この一行でも読んだ人の割合は3割しかいないらしいということ、もう一つは訳者が、読者の感想として「哲学がわかった」というのが一通もなかったこともとてもうれしかった(!)、と述べている(杉並月刊広報No.48)こと、この2つである。実は、これらはすべて「哲学」の本質を言い得ている。人は哲学に限りなく「あこがれる」。「哲学」はフィロソフィー(philosophy)で、フィロ(philo-)は「あこがれ」「愛」「好き」、ソフィー(-sophy)は「眞智」の意味。ほんとうは何なのだろう、ほんとうはなぜなのだろう、どこまでも知りたい、この気持は恋愛(エロス)にも似ている。いや、実際、ギリシアでは知へのあこがれはエロスと共通なものであった。
けれども、ほんとうは何(あるいは、なぜ)なのだろう、という問いかけは答えらない。「ほんとうは〜」と云いだせば、追求は限りなく続く(なぜなら、原因にはそれの原因があるから。)。答はない。つまり、哲学は実用には役立たない。役立つべきでもない、窮極の眞理をある人がつかんだら、むしろ恐ろしいだろうから。だから、260万という数字は「あこがれ」を示し3割は「無用」の学を示しているのである。また読者が「わかるはずがない」というのはノーマルである。これは「わかってたまるか」というのではもちろんない。
哲学は考えようではほんとうは恐ろしい学問である。『ソフィーの世界』では、フィロソフィーの「ソフィー」を主人公の女の子が演じているのだが、ソフィーは‘sofia’ともつづり、女性名詞である。そして、文字通り「哲学(ソフィー)の世界」のファンタジーが演じられているのである。女の子が演じる優しいファンタジーの世界としての仕立てはうまく行っているが、でも、哲学自体が「ファンタジー」だとしたら?これはなかなか大変である。後に述べるが、ある人々のファンタジーがホラー・ストーリーになった例をあげよう。
ふつうわれわれが「哲学」というとき、そこに必ず人間や人生が主題としてかかわっている。人生の意味、人生の生き方、その社会、その道徳・倫理、その政治・経済の意味などである。だから自然科学者が哲学的であるということは、物理学者を除けば、あまりない。ところで、哲学が世界や自然の動きに対する驚きや好奇心から起ったこと、つまり「哲学」の原型が「自然哲学」であることを考えあわせれば、これはいささかおかしい。この関わりでいえば、ニュートン(1643−1727)を近代科学の祖であると考えるのはふつうであるが、これはニュートン自身が近代科学としての科学者であることを意味せず、むしろニュートンの時代の科学は、今日いう「科学」と異なる、というよりはむしろそうではなく哲学に入っていると考えた方がよさそうである。実際、ニュートン自身が「自然哲学」と言っているのであるから。
見方をかえれば、自然哲学の功績は近代の科学技術を生んだ点にある。その成功の根本理由はただ一つ、自然は人間にとってとどのつまり「外界」だからである。基本的に、観察してゆけば知識はおおむね高まってゆく。すると、人間を自然の延長で考えることもできる。たとえば医学で、流行のこと、予後のこと、有名な4体液理論、医術の本質など、ヒポクラテスはこの時代に一定レベルに組織化された科学的認識に達している。数学にしても、現代から見ると抽象的な無理数論など(まさに「理がなく」不吉とされた)がよく紹介されているが、そこから出発して社会的な応用まで達している。
そうなると、人間が自分についての哲学、つまりは人間についての哲学をもったのは、人類にとっては稀有な体験、いや、むしろ、偉大な体験であったろう。なぜなら、自分が自分について考えることはなかなかむずかしい。空高くある月の運動について多く知る人間が、自分に一番近くある「自己」が何であるかわからないというのは奇妙どころか、全く人間の不可解さに見合っている。
であるからこそ、ソクラテス(前470−前399)が、「汝自身を知れ」とアカデメイア(アテネの哲学堂をさす。「アカデミー」「アカデミック」の語源)の入口の看板に掲げた有名な哲学標語が哲学のテーマの窮極となるのであろう。これが窮極的であるというのも、今日現代においてさえ(というよりは、なおさらのこと)、「人間とは何か?」「人間は何のために生きるか?」「人間の生きがいとは?」は答えられていないからである。いや、この分では永遠に答えられそうもない。たった一行の命題が2500年どころか永遠に解かれそうもないのだから、やはり凄いのである。これを以って、哲学史は「ソクラテス以後」と「ソクラテス以前」(pre-Socratic)に分けるのである。「ソクラテス以前」とは人間もその中に含む自然哲学の時代のことである。
ダヴィッド<<ソクラテスの死>>1787年
ニューヨーク、メトロポリタン美術館
ソクラテスは「聖人」と考えられているが、人生の窮極の題目を掲げるものの、突然の悟りを開いたとか、神の啓示を受けたというのではない。ソクラテスの説く所は論理と理性による議論を辿っている。だからこそ議論はきびしい。人の感覚は本来あやふやなものである。人は意見をもつが、それはほとんどが思いこみや憶測であり、誤りがある。それも時には誤ることがあるという程度のものではない。すべて「意見」(opinion)なるものは憶測(ドクサ doxa)だとみて差支えない。あのオーソドクス(orthdox)の‘dox’の語源である。
ソクラテスはそうやって他の説をことごとく論駁していく。いつのまにか為にする議論(詭弁)のように見えてくる。為にする議論をする人をふつう詭弁家(ソフィスト)というが、アテネでは議論は眞理に達する道であると考えられていたから、ソフィストは格別に今日のような悪評を伴ってはいなかったであろう。客観的にはソクラテスもソフィストの一人であった。弟子プラトンの『国家』で見てみよう。有名なトラシュマコスとの論争である。
トラシュマコス「結局、政治の正義とは強者の利益に他ならない」
ソクラテス 「そうかな」
トラシュマコス「正義とは平等というのは受入れられない。それはウソだ。」
ソクラテス 「ところで君は船長が航海術を、医者が医術を誤ることもあることを認めるかね」
トラシュマコス「そういうこともあるだろうよ」
ソクラテス 「君は政治家は強者の利益を考えるもの、といっているのではないかね」
トラシュマコス「そうだ」
ソクラテス 「政治家も誤るかね」
トラシュマコス「もちろん、そういうこともある」
ソクラテス 「では、政治家が誤って人民の利益を考えることはないかね」
トラシュマコス(眞赤になって怒って)あなたは、航海術を誤る船長が依然として船長であり、医術を誤る医者が依然として医者である、とでもまじめにいいたいのかね」
……
こうしてあやうくトラシュマコスの勝ちとなりそうであったが、実はソクラテスは巧みに論敵の無知と粗雑さをつき相手を敗北にまみれさせる。このようにして当代の人気ソフィストは自負心と虚栄心を傷つけられ次々と敗退してゆき、逆にソクラテスの熱狂的帰依者がギリシアの主要都市上流階級の子弟の中に増えてゆく。これは危険であった。アテネは民主政であり、人気ソフィストは今でいうマスコミの寵児、つまりは体制側権力ないしはその予備軍であったから。ついに紀元前399年ソクラテスは「不信心」にして「新しい神」を導入し青年を惑わす者として法廷に訴えられ、死刑を宣せられるに至る。
周囲の友人たちはソクラテスに申し開きを勧めるが、ソクラテスは理性と内なる良心の声にこそ従うのが人の眞に生きる道としてこれを斥け、毒にんじんの杯をあおぎ死地につく。人はただ「生きる」だけではない、「善く生きる」ものである、生きることだけならむしろたやすい、しかし、これでは人を腐敗させる力に追い付かれてしまう、と。このようにして、ソクラテスは少なくとも哲学史の記録の上で、理性と良心に殉じた最初の人となったのである。
だが、ソクラテスは宗教家でも宗教の祖でもない。宗教は人に人知を超えること、たとえば奇蹟を信じることを要求する。天国、来世、永遠の生命など。しかし、ソクラテスの説く所は、人は知れば知るほど自らが知る所は少ないことを知る、つまり、知れば知るほど語り出せない、こういうことであるから、その境地に達することは容易ではないにせよ不可能ではない。人知の及ぶ範囲内にある。
実際、知の戦略プログラムと考えることさえできる。トラシュマコスとの議論(闘論!)の中で、ソクラテスは相手を攻撃しているにもかかわらず、「それなら、君の考えはどうなんだ?」と切り返されても「そう簡単に答えられるものではないのだ、眞理は」と答えない。これをずるい論法と考えるかどうかは、見方にもよる。ただ、したり顔で眞理を説く者は「身のほど知らず」である。哲学する根本前提は、まさに『汝自身を知れ』ということに他ならない。これがおよそ人の生きるための哲学、つまりはそういう意味での「人生哲学」の始まりであり、また窮極でもある。
私とても、大学教師としてものを語るとき、詭弁家と映っていることが多いらしい。「詭弁です、あなたの言っていることは」と。しかし、大学教師はもちろん聖人でもなく人格者でもない。限りのある、そして誤ることもある当事者どうしであれば、そこは詭弁にならざるを得ないこともある。しかし、それを恐れてはならない。知恵に達するにはまずは共に語ることを怠ってはならない。
哲学は「学」といえども、それは人の思いであるからさまざまな考え方がある。アカデメイア派はその中でもとび切り強い影響力を今日まで残す学派で、西欧の思想・哲学・学問そして宗教(キリスト教)・文化などこの流れのもとにないものはほとんどない。(とはいえ、全くないわけではない)。東洋における儒教と思えば、おおよその想像はつく。
「派」を「家元」と仮に言い換えてみよう。初代家元はこのソクラテス。初代の例にもれずソクラテスは著書を残さなかった。第二代はプラトン(前427−前347)で、初代のいわば生き写しである。現にプラトンは師の裁判の傍聴席に居た。そのあまりの衝撃と師への敬愛は彼の著(プラトン著)がほぼすべて師ソクラテスを主人公としていることでもわかる。そうなるとソクラテスとプラトンはどこからどこまでがそれぞれかという見分けはつかない。いわば「二個一」。けれども師の持っていた宗教性に近い激しい情念は彼の心身をとらえ、師ソクラテスが言っていた「眞の…」は形を変え、よく「プラトニック」というように、そのプラトン版である「イデア」(理想、理念、眞理、本質)には、激しさを内に秘めた静かな気概と退かない自信がこもる。だからこそ、主著『国家』(ポリテイア politeia)では、「結局、哲学者が国を統治するのが最も良い形態であること自体は間違いない。それが私の理論(イデア論)の帰結だ」と、危険ではあるがそれ自体としては認めざるを得ないことを言い得たのである。そうなると、眞理というのは凡庸なものでも甘いものばかりでもない。それは危険な面を併せもつ。つまりは哲学する者は「ファンタジー」どころか「こわいもの見たさ」を持たねばならない。なお、プラトンは以後も国政への関心やみがたく、自ら実践にもかかわったが、結果ははかばかしいものではなかった。「第七書簡」はそれである。
プラトンの「イデア」は英語では idea で、要するに「理想」、ないしは「理想の型」つまりは「理論」をいうと思えば近い。つまり、プラトンは「理論」(によって)という思考のタイプの発明者である。もちろん、見かけ上考えることは理論によらなくてもできる。例えば「経験」だけに頼る。ただし経験のみを持つとき、それは眞に「思考」するといえるか、ふつうはいわないであろう。動物はたしかに経験するが理論はもたないであろうから。もちろん、プラトン自身も経験する。たとえば「三角形」を。しかし、「三角形とは何か」と考え三角形のイデア(本質)に達すれば、今書いた三角形は用済みとなる。この幾何学の例でもわかるように、イデアに達すれば個々のものは消えるのがプラトンの考え方。しかし、個々のものは残って、経験と理論が行き来して発展するのが近代の科学である。
そうは言っても、「理論」それ自体の発明の威力、影響力はまさにぼう大にして巨大。西欧の哲学伝統自体がまさにこの「プラトン主義」を根っこにしている。逆にいえば、これからぬけ出すのが「反プラトン主義」の試みだが、理論によらず物の「何か」をつかむのは至難のわざである。ただし、絵を描くとき対象物の「何か」をつかむために理論を経由するだろうか、「配置」とか「構図」とか「構造」によってではないか、これはどうも「理論」とは違うらしいことはわかる。実際、理論でいい絵はかけない…。だが、これはここまでにしておこう。
第三代はアリストテレス(前384−前322)。第一代は宗教的神秘性さえ感じさせる人、第二代は哲人の境地まで達した哲学者。そしてこの第三代は、はっきり言って聖人でもなく哲人の風も相当消えているが、前人未踏の(そして以後も凌駕されない)諸学の体系の設定を単独でした、つまり、礎(いしづえ)を置いた人である。そのカバレッジは論理学(学問の基礎方法論)、形而上学(今でいういわゆる哲学)、自然学(物理学、化学、生物学、地学、天文学の範囲に重なる)、倫理学(社会哲学、道徳、経済思想)、政治学(政治哲学、政治経済学)、詩学(文学、美学)というように気が遠くなるほど広い。しかも、単に大言壮語でなく、反省されて微細(ディテール)についてもよく気が配ってある。
その根幹の一つを挙げれば「原因論」で、〜から生じる、〜を目的としている、〜という原理で動く、という思考がフル稼働する。善を目的とするなら「国家」や「社会」、あるいは「人格」、さらには「技術」が説明され、完成を目的とするなら生物の成長、動く原理なら物理学、原料(原質料)なら化学という風に。これらの考え方の一つ一つは誤っているものもあるが、思考の傾向(対象のつかみ方)は今日でもいつのまにか我々もおおむねそう考えている様式も多い。論理学に至っては「カテゴリー論」から始まる四部作『オルガノン』は思考のための「機関」とか「機械」とか「方法大全」という感じで、現代風にいえば精密を極める「思考論理プログラム集」であり、端的によくもよくもここまでと感嘆を禁じ得ない。一つ挙げれば、いわゆる「三段論法」(ソクラテスは人間である−人間は死す−ソクラテスは死す)もここに入っており、現代でもこれを疑う者はいない。
では、アリストテレスは博覧強記の人だったのか。つまり、広く書を読み記憶力が抜群だったのか。そうであっただろう。ただ、これだけでは「超物知り」だけに終り、第三代家元には、軽すぎて無理、だったであろう。一代目(初代)、二代目あっての三代目である。三代目といえば完成の世代であるが微妙な世代でもある。「守る」のか「次なる発展」を考えるのか。実はアリストテレスのプラトンに対する態度は微妙であったというのが、学会の定説である。プラトンに対してアリストテレスの答えようは次のX、Yの2通りありうる。
X:「そうですね」
と答えていれば、守ったという説、
Y:「そうですか」「そうですかね」
と答えていれば、反対ないしは大幅修正(「発展」といううけつぎ方)したという説となる。アリストテレスは、X説なら文字通り史上初のプラトン主義者、Y説なら同じく反プラトン主義者となるから、「ね」と「か」の区別の意味は大きい。ただし、修正発展も守ったうちなら両者は対立は本当はしないのだが。後世ルネサンスの天才画家ラファエロの「アテネの学堂」をみれば、プラトンは天上の高きイデアをさし、アリストテレスは水平方向の地上の万物を指している、どちらが重要なのか?まさにこのテーマそのものである。いずれにせよ、2人の間は仲悪そうな感じはせず、対話は成立していそうである。そうならばホッとする。
たとえばアリストテレスの「原因論」はプラトンの「イデア論」の変型ではないか。つまり、ものの原因や根源はそのものの本質をなすから。「なぜ君はジョギングするのか」と問われれば、「健康のために」とその原因を答えるが、これはジョギングの本質が「健康」であるということと同じである。ただ、「原因」というと物を観察していればわかりそうだが、「本質」というと何やらむずかしい神秘的な「何か」を想像してしまう。とすると、「原因論」は「イデア論」とは別のことを言ったのだという説も成立しそうである。云々。
アリストテレスはどうもプラトンに向って「天上のイデアよりも、地上の万物のことを考える方が哲学にふさわしいのではありませんか」と言ったらしい。多分、現代人が投票すれば支持されそうな感もある。人間社会の政治・経済、環境etc.と考えてみると実際求められているものでもある。たしかに、アリストテレスは政治学、倫理学のような「実践学」(praxisプラクシス)の体系も作っている。「何であるか」が「理論学」(teoriaテオリア)なら、「何が善か」がこれの役割である。これが結構づくめと言えないのは次の通りである。
たしかに良き社会を作るのはそれ自体は誰も反対しない。問題は「いかにして」であろうか。これが大問題である。これについてはアリストテレスは触れていない。何が善かが定義されれば、方法は決まるのでは?しかし、アリストテレスはいう。善きものはさまざまに善きものであり、一つではない、と。例えば「足らざるを憂えず、等しからざるを憂う」は、平等が「正しさ」の内容をなすということだが(平均的正義)、しかし、現代風の例をとって、金持ちと貧乏人に平等な税をかけるのは却って不正義であり、比例的配分が正しさにかなう(配分的正義)、と。これをもってすれば、何が社会において善であるかは、自ら考えても少なくとも一通りではない。平等(正義)を一つとっても、いろいろな内容が成り立つのである。
となると、基準から方法が決まることは望み薄とならざるを得ない。基準1から方法1、基準2から方法2が決まるとしても、基準自体を決められない。というよりは、他の何らかの手段で方法1、2のどちらかをとることが決まれば、事実上逆に基準の方が決まってしまう。要するに、基準と方法は切り離せないことになるが、これは考えようによっては実に恐ろしい話である。「実践」ということはそれ自体悪いことではないが、社会の文脈の中におくと恐怖のストーリーも起りうる。
先に私は、A(マルクス)とかB(エンゲルス)とかの話をした。そこに戻ろう。A、Bの信奉者たちは社会を「変革」することをより強く提唱している。そして、実際そう実行した、正確にいうと、そう実際に試みたが、実現したのは恐ろしい全体主義的収容所列島であった。人の善意は疑わない。しかしながら善意のみの「ファンタジー」は「ホラー・ストーリー」に転化したのである。昔、ディズニーの映画に「ファンタジア」というのがあったが、その中にムソルグスキーの「はげ山の一夜」というホラー音楽があったことは忘れられない。
ターナー<<ネミ湖>>1828,9年
ロンドン、テート・ギャラリー
これで終ろう。ただその前に一言したいことがある。機能主義文化人類学を打ち立てたイギリスの人類学者フレイザー(1854−1941)は有名な『金枝篇』で次のように述べる。
−この祭司職の奇妙な規定は、古典古代のギリシアやローマにはその例を見ることができず、従ってそこから説明することはできない。説明のための資料を見出すためには、更に遠くの世界におもむかねばならない。このような慣習が未開時代の匂いをもち、そして帝国時代にまで残存して、ちょうどきれいに刈り込まれた芝生に突兀(とつこつ)として立つ自然の岩のように、その時代の洗練されたイタリアの社会の外にひとりきわ立っていたことを、おそらくは誰も否定はしないでおろう。その慣習の解明の希望をわれわれに抱かせるものは、その素朴さと野蛮性そのものである。人間の初期の歴史に関する近代のいろいろな研究は、多くの皮相的な相違はあっても、それをもって人間の心が最初の素朴な人生哲学を考え出したところの、根本的類似性を明らかにしたからである。(第一章森の王)−
少し解説しよう。「金枝」(Golden Boughゴールデン・バウ)とは、もともと、イギリスの光の風景画家といわれるターナー(1775−1851)の描いた金色に光り輝く森の枝である。この森は北イタリア山中のネミ湖畔にある。フレイザーのテーマは、この金枝は聖樹でありこれを守る祭司は森の王であるが、王も年老いて時満ちれば、聖樹から折取った金枝で弑逆されねばならない、かくて、「多くの共同社会において神聖な王は呪術師から進化したと考えられる」(序文)というものである。この未開性、野蛮性はしかしながら見かけ上のもので、ギリシアの(ソクラテスに代表される)人格的哲学の成立と対比・評価することがあってはならない、との含意は人をして納得させるものがある。ギリシア・ローマ文化の哲学的伝統を受けつぐ者だけが人類のエリートとされるべきではないとの指摘は正しい。
しかし、フレイザーの影響を大きく受けた後進マリノフスキー(1884−1942)は有名な『西太平洋の遠洋航海者』での冒頭近くで次のように述べている。このような大胆ななことがどうして言えるのか。
−評判も高く、学術的と太鼓判(たいこばん)を押されている研究でありながら、大風呂敷(おおぶろしき)の一般化を読者に示し、しかも著者が、いかなる実地の経験からそのような結論に達したかがぜんぜん説明されていないような例を引くのは、わけのないことである。観察を行ない、情報を集めたさいの状況を読者に知らせるための特別の一章はおろか、一節もないのである。−
痛烈である。フレイザーの研究の意義は大きいが、マリノフスキーはその研究方法については批判的である。しかも、フレイザーは本書の推薦の前書きを寄せているのだから、なおさらである。フレイザーはいわゆる書斎人類学者(アームチェア・アンソロポロジスト)であり、「未開社会」の研究に当ってヨーロッパ大陸を一歩も出たことがなかったのである。(ただし、マリノフスキーのこの段落がフレイザーを指すという証拠はないが、マリノフスキーのフレイザー批判とあまりにも平仄(ひょうそく)が合いすぎている。)レヴィ・ストロース(1908− )も『悲しき熱帯』で研究の徒労をなげきつつも、無駄の中から価値が発見されると論じている。研究者はよく旅行をし、そのはてにひとにぎりの貴重な事実を見出すものである。
−民族学者の仕事のなかで、冒険は格別の意義をもってはいない。冒険はたんに仕事に付随したものであり、道に迷った数週間あるいは数ヵ月という重荷になって、効果的な作業の上にのしかかってくるにすぎない。調査地で資料を提供してくれる人が、どこかへ行ってしまったために過ごす無為な数時間。空腹、疲労、ときには病気。そして調査といえばきまって、数ヵ月の労役のうちに、幾日もの日がなにもなすことなくむしばまれ、処女林のただなかでの危険な生活は、軍務のような様相を帯びてくる。……。(旅の終わり)−
そこである思想の眞実を証明する方法について少し考えよう。ソクラテスの場合、死ななくてもよかった。周囲が申し開きを勧めているのに対し、意固地になっていることは『クリトン』にある通りである。また、ソクラテスの弁明を読めば、彼の反論は政治的反論であって、訴訟の反証に向けられている。訴えた側の本意から見れば、ソクラテスがあまりに巨大になりすぎた点に理由が向けられ、ソクラテスはその述べた哲学の内容ゆえに訴えられたのでもなく、死を宣告されたのでもない。逆に死は方法として、彼の哲学的主張に磐石の証明を与えるために選ばれたとしたらどうだろうか。実際、ソクラテスが死ななかったとしたら?哲学解釈者たちは、ソクラテスはソフィストではなかったが、その差はぎりぎりだと言っている。要するに紙一重であり、ソクラテスもソフィストであったとしても少しもおかしくはない。だからソクラテスが死ななかったら、いわゆる「ソクラテス」の哲学はなかったであろう。ソクラテスの死がソクラテスの哲学とは別個に方法として選ばれたのだと思う。それが西洋哲学全体にとって「ソクラテスの死」が持つ格別の意味である。
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