すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。その証拠としては感官知覚〔感覚〕への愛好があげられる。というのは、感覚は、その効用をぬきにしても、すでに感覚することそれ自らのゆえにさえ愛好されるものだからである、しかし、ことにそのうちでも最も愛好されるのは、眼によるそれ〔すなわち視覚〕である。けだし我々は、ただたんに行為しようとしてだけでなく全くなにごとを行為しようともしていない場合にも、見ることを、言わば他のすべての感覚にまさって選び好むものである。その理由は、この見ることが、他のいずれの感覚よりも最もよく我々に物事を認知させ、その種々の差別相を明らかにしてくれるからである。
ところで、動物は、(1)自然的に感覚を有するものとして生まれついている。(2)この感覚から記憶力が、或る種の動物には生じないが、或る他の種の動物には生じてくる。そしてこのゆえに、これらの動物の方が、あの記憶する能のない動物よりもいっそう多く利口でありいっそう多く教わり学ぶに適している。ただし、これらのうちでも、音を聴く能のない動物は、利口ではあるが教わり学ぶことはできない、−たとえば蜂のごときが、またはその他なにかそのような類の動物があればそれが、そうである、−しかし、記憶力のほかにさらにこの聴の感覚をもあわせ有する動物は、教わり学ぶこともできる。
さて、このように、他の諸動物は、表象(ファンタシア)や記憶で生きているが、経験(エンペイリア)を具有するものはきわめてまれである。しかるに、人間という類の動物は、さらに技術や推理力で生きている。ところで、(3)経験が人間に生じるのは記憶からである。というのは、同じ事柄についての多くの記憶がやがて1つの経験たるの力をもたらすからである。ところで、経験は、学問(エピステーメー)や技術(テクネー)とほとんど同様のものであるかのようにも思われているが、しかし実は、(4)学問や技術は経験を介して人間にもたらされるのである。けだし、「経験は技術を作ったが、無経験は偶運を」とポロスの言っている通りである。さて、技術の生じるのは、経験の与える多くの心象から幾つかの同様の事柄について1つの普遍的な判断が作られたときにである。というのは、カリアスがこれこれの病気にかかった場合にはしかじかの処方がきいたし、ソクラテスの場合にもその他の多くの個々の場合にもそれぞれその通りであった、というような判断をすることは、経験のすることである、しかるに、同じ1つの型の体質を有する人々がこれこれの病気にかかった場合には−たとえば粘液質のまたは胆汁質の人々が熱病にかかった場合には−そうした体質の患者のすべてに対して常にしかじかの処方がきく、というような普遍的な判断をすることは、技術のすることである。