残りのいま一つの種類は、もろもろの随意的ならびに非随意的な人間交渉において、ただしきを回復するための矯正的(ディオルトーティコン)なそれである。この「正」はさきのそれとは異なった形態を有している。というのは、共同的なもろもろの事物の配分にかかわるところの配分的(ディアネメーティコン)な「正」は常に上述のような比例に即している。事実、共同的な資財に基づいて配分の行なわれる場合にしても、その正しい配分は当事者たちの寄せた資財の相互の間に存する比とまさに同じ比に即して行なわれるであろう。そして、こうした意味での「正」に対立するところの「不正」とは、「比例背反的」ということにほかならない。しかるに、いまのようなもろもろの人間交渉における「正」とは、これもやはり一種の「均等」(そして「不正」は「不均等」)ではあるが、それはしかし、さきのような比例に即しての均等ではなく、算術的比例(アナロギア・アリトメティケー)に即してのそれである。けだし、よきひとがあしきひとから詐取したにしてもあしきひとがよきひとから詐取したにしても、また、姦淫を犯した者がよきひとであるにしてもあしきひとであるにしても、それはまったく関係がない。かえって、法の顧慮するところはただその害悪の差等のみであり、どちらかが不正をはたらきどちらかがはたらかれているということ、どちらか害悪を与えどちらかが与えられたということが問題なのであって、法は彼らをいずれも均等なひとびととして取扱う。したがって裁判官が均等化しようと努めるところのものは、こうした意味における「不正」−「不均等」がそこに存するのだから−にほかならない。詳しくいうならば、一方が殴打され他方が殴打するという場合とか、ないしはまた一方が殺し他方が殺されるという場合にしても、するとされるとで不均等に区分されることになる。だからして、裁判官は、一方から利得を奪うことによって罰という損失でもってその均等化を試みるのである。かような語を用いるのは、もろもろのそうした場合についてこれを単純化して語らんがためである。或る場合においては利得という名称はもとより適切でない。たとえば障害を加えたひとの場合のごとき。被害者にとっての損失というごときもまた然りである。だが、被害が計量される場合ならば、事実、一方は利得、他は損失と呼ばれる。そういうわけで、過多と過少との「中」が「均等」ということであるのに対して、「利得」と「損失」は、それぞれ反対的な仕方における「過多」と「過少」にほかならない。(善の過多であり悪の過少であるのが利得。その逆が損失。これら両者の「中」がここにいうところの「均等」であつたのだし、もともとわれわれは「均等」ということが「正」であるとなしているのである。かくて匡正的な「正」とは、利得と損失との「中」でなくてはならない。
紛争の生じたときにひとびとが窮余裁判官に訴えに赴くのもこのゆえである。裁判官に訴えるということは「正しき」に訴えるということにほかならない。裁判官(ディカステース=正しきをつかさどるひと)はいわば生きた「正」たるべき意味を持っているのである。その際ひとびとは裁判官が「中」的であることを求めているのであって、或る地方では現に裁判官のことを「メシディオス」(=中を得るひと)と称している。「中」を得ることによって「正」を得るだろうというわけである。それゆえ、裁判官の場合が示しているように、「正」とはやはり或る意味での「中」なのである。裁判官は均等を回復するのであるが、彼はいわば1つの線分が不均等な両部分に分たれている場合に、大きな部分が全体の半分を超えているそれだけのものをそこから取り除いて、小さいほうの部分へ付け加えてやるのである。そして全体か切半されたものになるにいたったとき、「自己のものを得た」といわれる。均等なものを得るのだからである。
「均等」とは、ここでは、算術的比例に即しての、多と少との「中」にほかならない。「正」dikaionという名称の由来もここにある。それは切半的dichaionとでもいうほどの意味−切半されるのだから−であり、裁判官dikastesとは、すなわち、切半者dichastesを意味している。
詳しくいうならば、均等な二者の一方からXが奪われて他の一方に加えられたならば、後者はXの2倍だけ前者を超えることとなる。けだし、もし一方から奪われてもそれが他へ加えられないならば、単にXだけ超えているにすぎないだろうからである。してみればXを加えられたほうは、Xだけ半を超えているのであるし、半はすでにまた奪われたほうをXだけ超えている。このことによってわれわれは、何をより多きほうから奪うべきであるか、そうして何をより少なきほうに加うべきであるかを知るであろう。すなわち、「中」に足りないだけを少ないほうに加えるべきであり、「中」を超えているだけを大きいほうから奪うことを要するのである。(AA´BB´CC´の3線分が相互に等しいとする。AA´からAEなる部分が奪われCC´にCDが加えられるとする。そうするとDCC´の全体はEA´をCDおよびCFだけ超えており、したがってまたBB´をCDだけ超えている。)[このことは他の諸技術の場合にあっても同様である。けだし、能動の側が一定の量の一定の性質のことがらをなせば、受動の側がそういう量のそういう性質のそれを受動するということがないならば、技術は滅びるほかはないだろうからである。]
この「損失」ならびに「利得」という名称は随意的な交易に由来する。たとえば売るとか買うとかその他およそ法の容認のもとに行なわれる取引において、自分に属する以上を得ることが利得、最初自分に属していたよりも少なくしか得ないのが損失と呼ばれる。そして、もしこれに対して、過多でも過少でもなくまさしく自分のものそれ自身が与えられた場合には、ひとびとは「自已のものを得た」となし、損だとか得だとかいわないのである。
だからして、「正」とは、ここでは、一方の意に反して生じた事態における或る意味における利得ならびに損失の「中」であり、事前と事後との間に均等を保持するということにほかならない。