プラトン『ゴルギアス』

善き者だけが救う価値があるのか

邪悪な者を救う価値はないのか

現代道徳への挑戦

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 第1章概説へ


 この技術[操船術]は、いま言ったように、その人自身もその子供たちも、財貨も女たちも、一切合財を安全に救い、港まで送り届けて上陸させておきながら、それだけの大きな奉仕に対してせいぜい二ドラクメを請求するにすぎないのだ。しかも、この技術の所有者であり、これだけの事業をなしとげた当の本人が、上陸してから海辺の自分の船のあたりを散歩している、その慎ましやかな態度を見よ!

 それというのも、思うに、彼は頭を働かせて考えてみることを、ちゃんと知っているからなのだ。自分は、航海をともにした船客たちを海に溺(おぼ)れないようにしてやったが、そうすることによって、はたして彼らのうちのだれを益しだれに害を与えたことになるのかは、ほんとうはわからないのだということをね。ほかでもない、彼は、自分が船客たちを、乗船したときとくらべて肉体的にも精神的にも、よりすぐれた人間にしたうえで上陸させたわけではないのを、よく承知しているからだ。

 彼は、こんなふうに考える。もし乗客たちのなかに重い不治の病いに身体(からだ)をおかされている人がいて、その人が海に溺れるのをまぬかれたのであれば、そういう人は死ななかったがゆえにかえって惨めであり、したがって、船員である自分からなんら有益な奉仕を受けたことにはならないであろう。しかるに、だれかが身体よりもさらに大切なもの、魂のなかに数多くの不治の病いをもっているばあい、そういう人にかぎって生きていたほうがよいというようなことが、いったい、ありうるだろうか。そういう人を、海であれ、法廷であれ、その他どこであれ、とにかく危険から安全に救ってやることによって、その人のためになる奉仕をしたことになるだろうか。いや、そんなはずはない、と彼は考える。邪悪な人間にとっては、生きているということはなんら善(よ)いことではない、邪悪な人間が悪い(不幸な)生き方しかできぬのは動かぬ必然だから、ということを彼は知っているのだ……。

 そういうわけだから、船の舵取人(かじとりびと)はふつう、われわれを安全に救うからといって威張りかえるようなことはしないのである。

 さらにまた、君よ、兵器をつくる技師にしても同じことだ。彼は、人を安全に救う力にかけては、しばしば、船の舵取人はおろか、一軍の将とくらべても、その他、何者とくらべても、けっしてひけをとらない。なにしろ、国全体をそっくり救うばあいだって、あるのだから。よもや君は、彼を法廷弁士なみだとは思わないだろう?