イデアの世界

テオリア=心に観(み)ること

セオリー(理念、理想)のはじめ

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 第1章概説へ


影絵の世界−プラトンの洞窟

 真なるものは、本来、その時がくれば世に浸透してゆく。このことをわれわれは信念とせざるをえない。真なるものは、その時がきたときのみ現れるのであり、したがって、決して早くあらわれすぎることも、未熟な公衆しか見出さないということもない。これは、ある有名な哲学者のことばである。われわれ人類の行先も見えない混沌とした今日の世界では、これほどの客観的な真理にたいする信頼をみいだすことは難しかろうが、やはり、その日その時が来れば、われわれが一体どこに向かっているのかわれわれの誰にもわかるのだと思う。わずかであるが少し早く、私はそれを知りたい。われわれが来た道をふりかえり、これから何回かに分けて述べるように、さまざまにおもいなしてみれば、この哲学者のことばもよくわかる。真なるものとは何なのであろう。

 真実の世界を求めそれを知ることが人間の幸福であるという確信は、人類に共通した普遍的なものである。その意味で、ヤスパースが人類の「枢軸の時代」とよんだように、古代は人類に巨大な贈物をした。一つはキリスト教、仏教などの「世界宗教」、いま一つは「哲学」(形而上学)である。ではいま、われわれの今生きて感覚している世界の背後にはよき真実の世界が有り、その世界がさまざまな形をとってわれわれの目前に現象として展開し、われわれはその現象世界しか見えない、という考え方をしてみよう。

 プラトンはこのテーマにまことに美しい譬えを出した。人間は洞窟にとらわれた囚人であり、生まれてこのかたそんな境遇に居つづけているので、何を知ることもできない。あまつさえ、どういうわけか、この洞窟のなかでは一つの向きのほかは見ることができないよう手足と首をきつく縛られている。そこへ、洞窟の奥の壁の上に人形劇のような影絵の世界が美しく映し出されたとしよう。人間はこれを何とみようか。

 プラトンの『国家』(ポリティア)第7巻を読んでみよう。

 「ではつぎに」とぼくは言った、「教育と無教育ということに関連して、われわれ人間の本性を、次のような状態に似ているものと考えてくれたまえ。

 −地下にある洞窟状の住いのなかにいる人間たちを思い描いてもらおう。光明のあるほうへ向かって、長い奥行きをもった人口が、洞窟の幅いっぱいに開いている。人間たちはこの住いのなかで、子供のときからずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前のほうばかり見ていることになって、縛めのために、頭をうしろへめぐらすことはできないのだ[ab]。彼らの上方はるかのところに、火[i]が燃えていて、その光が彼らのうしろから照らしている。

 この火と、この囚人たちのあいだに、ひとつの道[ef]が上の方についていて、その道に沿って低い壁のようなもの[gh]が、しつらえてあるとしよう。それはちょうど、人形遣いの前に衝立が置かれてあって、その上から操り人形を出して見せるのと、同じようなぐあいになっている」

 「思い描いています」とグラウゴンは言った。

 「ではさらに、その壁に沿ってあらゆる種類の道具だとか、石や木やその他いろいろの材料で作った、人間およびそのほかの動物の像などが壁の上に差し上げられながら、人々がそれらを運んで行くものと、そう思い描いてくれたまえ。運んで行く人々のなかには、当然、声を出すものもいるし、黙っている者もいる」

 「奇妙な情景の譬え、奇妙な囚人たちのお話ですね」と彼。

 「われわれ自身によく似た囚人たちのね」とぼくは言った、「つまり、まず第一に、そのような状態に置かれた囚人たちは、自分自身やお互いどうしについて、自分たちの正面にある洞窟の一部[cd]に火の光で投影される影のほかに、何か別のものを見たことがあると君は思うかね?」

 「いいえ」と彼は答えた、「もし一生涯、頭を動かすことができないように強制されているとしたら、どうしてそのようなことがありえましょう」

 「運ばれているいろいろの品物については、どうだろう?この場合も同じではないかね?」

 「そのとおりです」

 「そうすると、もし彼らがお互いどうし話し合うことができるとしたら、彼らは、自分たちの口にする事物の名前が、まさに自分たちの目の前を通りすぎて行くものの名前であると信じるだろうとは、思わないかね?」

 「そう信じざるをえないでしょう」

 「では、この牢獄において、音もまた彼らの正面から反響して聞えてくるとしたら、どうだろう?[彼らのうしろを]通りすぎて行く人々のなかの誰かが声を出すたびに、彼ら囚人たちは、その声を出しているものが、目の前を通りすぎて行く影以外の何かだと考えると思うかね?」

 「いいえ、けっして」と彼。

 「こうして、このような囚人たちは」とぼくは言った、「あらゆる面において、ただもっぱらさまざまの器物の影だけを、真実のものと認めることになるだろう」

 「どうしてもそうならざるをえないでしょう」と彼は言った。

 「では、考えてくれたまえ」とぼくは言った、「彼らがこうした束縛から解放され、無知を癒されるということが、そもそもどのようなことであるかを。それは彼らの身の上に、自然本来の状態へと向かって、次のようなことが起る場合に見られることなのだ。

 −彼らの一人が、あるとき縛めを解かれたとしよう。そして急に立ち上がって首をめぐらすようにと、また歩いて火の光のほうを仰ぎ見るようにと、強制されるとしよう。そういったことをするのは、彼にとって、どれもこれも苦痛であろうし、以前には影だけを見ていたものの実物を見ようとしても、目がくらんでよく見定めることができないだろう。

 そのとき、ある人が彼に向かって、『お前が以前に見ていたのは、愚にもつかぬものだった。しかしいまは、お前は以前よりも実物に近づいて、もっと実在性のあるもののほうへ向かっているのだから、前よりも正しく、ものを見ているのだ』と説明するとしたら、彼はいったい何を示して、それが何であるかをたずね、むりやりにでも答えさせるとしたらどうだろう?彼は困惑して、以前に見ていたもの[影]のほうが、いま指し示されているものよりも真実性があると、そう考えるだろうとは思わないかね?」

 「ええ、大いに」と彼は答えた。

 プラトンのこの洞窟の譬えの目的は、後世の人々が、「現実」と「理想」(「理念」)、あるいは、第四次元、精神分析概念(ユング)、象徴、など千差万別に解釈している。さしあたりは、「このような囚人たちはさまざまな器物の影だけを真実のものと認めることになるだろう」、ということを示すことにあるであろうし、また、縛めを解かれてからも、「以前に見ていたもの(影)のほうが、いま指し示しているものよりも真実性があると、そう考えるだろうとは思わないか」ということである。

光の世界

 この譬えはもちろんこれで終わるわけではない。囚人たちが縛めを解かれて、目が痛くなりながらも、自ら、光に向かって上へ登っていって上方の事物―「善」の「イデア」(アガトン・イデア)の世界―を観ることから、プラトンの『国家』のまさに最中心部分に近付くことになる。実際、プラトンの注釈者ショーリイも、イデアから「国家」が構成されてゆくここ(517C)が『国家』の最重要部分である、という注釈を付けている。

 「それでは親しいグラウコンよ」とぼくは言った、「いま話したこの比喩を全体として、先に話した事柄に結びつけてもらわなければならない。つまり、視覚を通して現われる領域というのは、囚人の住いに比すべきものであり、その住いのなかにある火の光は、太陽の機能に比すべきものであると考えてもらうのだ。そして、上へ登って行って上方の事物を観ることは、魂が<思惟によって知られる世界>へと上昇して行くことであると考えてくれれば、ぼくが言いたいと思っていたことだけは−とにかくそれを聞きたいというのが君の望みなのだからね−とらえそこなうことはないだろう。

 ただし、これが真実にまさしくこのとおりであるかどうかということは、神だけが知りたもうところだろう。とにかくしかし、このぼくに思われるとおりのことはといえば、それはこうなのだ。−知的世界には、最後にかろうじて見てとられるものとして、<善>の実相(イデア)がある。いったんこれが見てとられたならば、この<善>の実相こそはあるゆるものにとって、すべて正しく美しいものを生み出す原因であるという結論へ、考えが至らなければならぬ。すなわちそれは、<見られる世界>においては、光と光の主とを生み出し、<思惟によって知られる世界>においては、みずからが主となって君臨しつつ、真実性と知性とを提供するものであるのだ、と。そして、公私いずれにおいても思慮ある行ないをしようとする者は、この<善>の実相をこそ見なければならぬ、ということもね」

 この「公私においても思慮ある行ないをしようとする者」とあるところに、理想国家としてのプラトンの「理想国」、国制としての「優秀者支配制」(アリストクラシー)が、できあがっている。当然、その支配者は哲学する者(哲人統治者)でなければならない。というのも、プラトンは、前に、哲学者をイデア論からはっきりと定義しているからである。

 「では真の哲学者とは」とかれはたずねた。「どのような人だといわれるのですか。」

 「真実を観ることを」とぼくは答えた、「愛するひとだ。」(475E)

 影絵の世界から善のイデアの世界への上昇は、神秘的な幻想美の世界をわれわれに感じさせる。しかしプラトンは、むしろ、認識の確かさを表すためにこうしたのである。事実、真実を「観る」といい、真実を「知る」とは直接にはいっていない。「見る」ことが真実を「観る」ことにつながってゆくという確信がある。プラトンの認識論では、一貫して、視覚が他の感覚よりも信頼され重視されている。しかし、視覚はそれ自体で役に立つのだろうか。プラトンの洞窟の中では火がうしろで燃えているが、この火に意味がありそうだ。

 前にこういっているのである。

 「ところが、視覚とそれによってみられるものは、ほかに(なにかを)必要とするのだ、ということに君は気付いていない。」

 「どうして気付きましょう。」・・・「いったい何なのです、あなたが必要だといわれているそれは。」

 「それはつまり君が『光』とよんでいるものだ。」

 視覚には光が必要である。一方、プラトンにとって「音」(音程)とは「調和」であったし、ある音程だけ離れている二音が美しく響き合うことも、規則正しく理解されていたが、聴覚に空気が必要であることは意識されていなかった。「光」はこのように特別の哲学上の役割を負ったのである。もちろん、光は太陽が与えるものであるから、光によって善のイデアを観ることができるなら、太陽こそ善のイデアがもたらしたものである。火とは太陽の機能なのであった。「この太陽こそ善の生みだしたものとぼくが云おうとしていたものだと宣言してくれたまえ」。こうして、ギリシャの明かるい風光から、プラトンの、永遠なるイデアの世界が生まれるのである。

幾何学の精神

 幾何学もイデアの世界への跳躍台である。今日のわれわれの学習体験からは、やや唐突かもしれないが、少し考えるとむしろ理解しやすいものである。「仮定」(前提)から「結論」へと「証明」を導いてゆく道は、完全に純粋な思考であって、ここにおいて人は「仮定」「結論」「証明」という純粋思考―厳密思考というより―の体験に触れるのである。紙に図形を書いているのは、思考を助けている仮のものにすぎないのであって、証明は思考そのものである。

 たとえば、点は「位置があって広さがない」ものと定義される。現実に点を打つとこうはならないから、点は現実の世界には真のものとして存在せず、理想的な点、つまり、「理念」としてだけ存在する。さらに、実際の(正)四角形も四角形ではない。したがって、「四角形を書く」「四角形にする」という行為はありえない。ただ、「四角形がある」、だけである。しかも、われわれの観念の中では、四角形は永遠に変わることがない。二等辺三角形の両底角はいついかなる時であっても等しい、というのと同じである。

 プラトンは、極めて重要な意味をもつ問答をしている。

 「それ(幾何学)が知ろうとするのは、つねにあるものであって、時によって生じたり滅びたりする特定のものではないということだ。」

 「それは容易に同意を得られる点です。」

 「なぜなら、幾何学は、つねにあるものを知る知識なのだから。」

 幾何学を学ばないものは哲学者になれない、したがって、良き支配もできない、人はこれを年齢的順序として第二学科として必修すべきである、というプラトンの真意がよくわかる。第一学科は最も年少のとき修めるもので、「数」である。プラトンにあっては、数は幾何学の図形ほど重要ではない。アリストテレスは「ニコマコス倫理学」(第6章)で、数もイデアであるとして、師に論駁している。

巨大な物ものさし

 以後、世界の哲学も変転をくりかえした。しかし、幾何学の真理が永遠に不変であるように、プラトンの善のイデアもそのように不変のものである。プラトンは、こういうのである。世界の本質は善であり、それが本来の意味で―プラトンの譬えでは、医者が患者を治療するその医術によってだけ医者であるように―なされることが国家の正義である。プラトンの夢は挫折したがその情念は後世を支配し、プラトン以後、この「善」への信仰、正義信仰を中心にする、もろもろの本質主義、理想主義、理念主義が、西洋哲学の最大の伝統を形作るものとなった。哲学上広い意味で「プラトン主義」といわれているものであり、東洋人のわれわれが感じる西洋哲学の芳香はこれによるのである。

 一言でいえば、プラトンは「理想」―内容はそれこそ千差万別だが―ということそれ自体の発明者であり、人類最大の哲学的預言者、幸福観念の発明者であった。

 たとえば、キリスト教は、哲学的には、ユダヤ・ヘブライの民族一神教のプラトン主義による普遍化と考えてよい。逆に、プラトンの精神はキリスト教の出現をまって時満ちて完全なものになり、世界を変革する精神の哲学になったと云うのが、ヘーゲルである。その最終目標は「自由」自体である。そこで、「精神的宇宙の確信」としていわれるのが、次の有名のプラトンについてのことばである。

 だが彼(プラトン)のきわだった特徴の中心をなす原理が、まさしくその当時、世界の切迫している変革の中心となった軸であるということによって、プラトンは偉大な精神たるの実を示したのである。
   理性的であるものこそ現実的であり、
   現実的であるものこそ理性的である。

 「世界の切迫している変革の中心の軸」がキリスト教の出現であることはいうまでもないが、「理性的」とは宇宙理法であり、具体的には、「自由」である。ヘーゲルは、これを当時(19世紀初頭)のプロイセンによみこみ、当時流行していた浅薄な「心情」、「友情」、「感激」からではなく、理性的自由の実現として、「ドイツ国家」の統一建設の論議を呼号したのである。一言でいえば、ドイツ(ゲルマン民族)においてこそ人類の自由の精神的理想が実現する。そのように歴史が展開してきた―「世界精神」の発展―というのである。その完璧な理詰めに、まさに「ドイツ精神」を感ぜざるをえない。ヘーゲルからこれを転用した、「プロレタリア(無産階級)の解放」への歴史の歯車の必然的進行を説くマルクスの自然的理想主義も、プラトン主義である。もっとも、もともとプラトン自身には「進歩」「発展」の観念はないのだが。

 また、キリスト教を「弱者の道徳」として、正義の内容の大転換に挑んだかのニーチェさえ、世界は「権力への意志」によって貫かれているということによって、「神の愛」が「権力への意志」に入れ代わっただけでいぜんプラトン主義の中にあることを、不本意にも、自ら証明した。ニーチェといえば、カッシーラーによれば、ナチスもプラトンの哲人支配の哲学の朋輩であるという。

 批判や抵抗もしつようである。社会的、政治的問題を科学的関心を以て見たカール・ポパーは、ソクラテス、カントは批判せず、各継承者プラトン、ヘーゲルを厳しく批判する。その反プラトンの理由は、社会科学に本質主義―「そもそもドイツ人・・・は」という類の大言壮語―を最初に引きこみ、それによって不毛で無内容の「歴史主義」(ヒストリシズム)を作りあげ、世に危険や害毒(ファシズム、共産主義をさす)をながす元凶であったのは、プラトン、アリストテレスだという。だがまともな歴史家なら、ポパーのいうような歴史を書くことは不可能であろう。まともに歴史を読んだ科学者ならポパーの主張を無限定に受入れたりはしないだろう。

 また、フェルディナン・ド・ソシュールらの構造主義も、言語には一切の通時的(時間を貫く)本質は存在しないとする。今世紀の知的反プラトン主義を代表し、我国でも相対主義者達に信奉者が多い。

 結局、数理哲学者ホワイトヘッドの次の有名な表現があたっているのであろう。

 「ヨーロッパの哲学伝統の最も安全な一般的性格付けは、それがプラトンについての一連の脚注から成っているということである。」(「過程と実在」)

 社会科学的にみれば、プラトンは、「善のイデア」から理想国制を構想し対照的に民主制をはじめ四つの国制(政体)を論じたが、人間にとってプラトンの論じたものの意義は何であるか。プラトンが潜主独裁(扇動政治)についで悪いと低く評価した民主制も、そのとおりの問題の様相を現代において見せている。他方、奴隷制がなくなっただけで、当時論じられた国制はすべて今日の地球上に存在するのだが民主制が比較的ましな制度であることは人類の一つの確信である。これらの事実や経験は矛盾するが、この矛盾のなかで人類は幸福を論じ、また求めている。プラトニスト、ホワイトヘッドはいう。

 「古代世界の政治上の内紛に関して解決を見たものは、まだ何もない。プラトンの論じている問題は、どれも今日においてもなお生きている。」(「観念の冒険」)

 いまなお、プラトンは人類の幸福の巨大な「ものさし」なのであり、その「理想」は、かってとはまたちがった形で、目的の巨大な執行力(実行力)を諸民族に対し発揮することになるであろう。議会的民主制の普遍化、市場合理主義の徹底、自由の世界宗教の力、自然科学的普遍主義、の諸力の連合である。もう世界は動き始めている。