次の課題を考えながら、アリストテレス『形而上学』第5巻を読んでみよう。
こどもが親にむかって「頼まれて生まれてきたんじゃない」ということがある。では
問:なぜその子(あるいは私)はここにいるのだろうか
の答えあるいは説明文を4通り考えなさい。それぞれ100字程度とする。
[第5巻=哲学用語辞典]
第1章
事物のアルケー[始まり、原理、始動因]というは、まず、(1)当の事物が第一に[最初に]そこから運動し始めるところのその部分[運動の始まり、出発点]を意味する。たとえば、線とか道路とかでは、それのこちら側からはこちらの端があちらへの始まり(アルケー)であり、反対にあちらからはあちらの端がそれである。つぎには、(2)なにごとがなされるのにもそれからなされ始めれば最も善くそのことがなされるであろうところのそれ[最善の出発点]を意味する。たとえば、我々が物事を学ぶ場合、我々は必ずしもその物事の第一のものすなわちその根本の原理(アルケー)から学び始めはしないで、時としては学ぶに容易なところから学び始めるがごときである。さらにまた、(3)事物が第一にそれから生成し且つその生成した事物に内在しているところのそれ[すなわち事物の第一の内在的構成要素]のことをもその事物のアルケーと言う。たとえば、船ではその竜骨、家ではその土台石のごときであり、また動物については、或る人々は心臓を、或る人々は脳髄を、さらに他の人々はそれぞれ或る他の部分を、このような意味でのアルケーであると考えている。なおまた、(4)それから生成したその事物のうちには内在していないで、しかもそれからこの事物が第一に生成し来り、それから第一にこの事物の運動や転化が自然的に始まるところのそれ[転化の外的始動因]をも意味する。たとえば、子供がその父母から生まれ、あるいは紛争が悪口雑言からおこるように。さらにまた、(5)動かされるものどもがそのように動かされ、転化するものどもがそのように転化するのは或る者の意志によってであるとき、この或る者がまたアルケーと呼ばれる。たとえば、都市国家においてこれを動かすものがアルカイ[アルケーの複数形、主権]と呼ばれ、また権力政治(デイナステイア)や君主政治(バシレイア)や僭主政治(テイラニデス)などがアルカイ[統治、政権]と言われるがごときである。 あるいはまた諸丶の技術においても、ことに建築関係の諸技術を指図する棟梁の術がアルキテクトニケーと呼ばれるのはそのためである。さらに、(6)対象事物がそれから第一に認識されるに至るところのそれ[認識の第一前提]がまた、その事物のアルケーと言われる。たとえば、論証の前提する仮定は論証のアルケー[前提]と言われる。−なお、アルティオン[原因]というのも、このアルケーと同じだけ多くの意味に用いられる、というのはアルティオンはすべてアルケー[原理]だからである。−さて、これらでみると、これらすべての意味のアルケーに共通しているのは、それらがいずれも当の事物の「第一のそれから」であること、すなわちその事物の存在または生成または認識が「それから始まる第一のそれ」であることである。しかし、これからのうち、その或るものはその当の事物に内在しており、他の或るものはそれの外にある。さて、それゆえに、事物のフィシス[自然]も原理(アルケー)であり、ストイケイオン[元素、構成要素]もそうであり、思想や意志もそうであり、実体もそうであり、また、それのためにであるそれ[目的(ト・フー・ヘネカ)]も同様である、というのは、善や美は多くの物事の認識や運動の始まり(アルケー)だからである。
第2章
事物のアイティオン[原因]というは、或る意味では、(1)事物がそれから生成し且つその生成した事物に内在しているところのそれ[すなわちその事物の内在的構成要素]をいう。たとえば、銅像においては青銅が、銀盃においては銀がそれであり、またこれらを包摂する類[金属]もこれら[銅像や銀盃]のそれである。しかし他の意味では、(2)事物の形相(エイドス)または原型(パラデイグマ)がその事物の原因(アイテイオン)と言われる、そしてこれはその事物のなにであるか(ト・テイ・エーン・エイナイ)[本質]を言い表わす説明方式ならびにこれを包摂する類概念−たとえば、1オクターブのそれは1に対する2の比、並びに一般的には[その類なる]数−およびこの説明方式に含まれる部分[種差]のことである。さらにまた、(3)物事の転化または静止の第一の始まり(アルケー)がそれからであるところのそれ[始動因、出発点]をも意味する。たとえば、或る行為への勧告者はその行為に対する責任ある者(アイテイオス)[原因者]であり、父は子の原因者[始動因]であり、一般に作るものは作られたものの、転化させるものは転化させられたものの原因(アイテイオン)であると言われる。さらに、(4)物事の終り(テロス)、すなわち物事がそれのためにであるそれ[目的]をも原因(アイテイオン)という。たとえば、散歩のそれは健康である、というのは、「君はなにゆえに[なんのために]散歩するのか」との問いに私は「健康のために」と答えるであろうが、この場合に私は、こう答えることのよって私の散歩する原因をあげていると考えているのだから。なおまたこれと同様のことは、他の或る[終りへの]運動においてその終り [目的]に達するまでのあらゆる中間の物事についても、たとえば痩せさせることや洗滌することや薬剤や医療器具など健康に達するまでの中間の物事についても、言える。というのは、これらはすべてその終り(テロス)[ここの例では健康]のためにある物事だから。ただし、これらのうちでも、その或る物事[後の2つ]はそのための道具(オルガナ)であり、他の或る物事[前の2つ]は、行為(エルガ)である[そして道具はさらに行為のための手段である]という差別がある。
さて、原因というのにも大体これだけちがった意味の原因があるので、これに伴なってつぎのようなことが生じてくる。まず第一には、同じ物事にも幾種かの原因があるということである、しかもどちらも付帯的にではなしにそうなのである。たとえば、彫像術の青銅もともに同じ銅像の原因であり、しかも付帯的にではなしに銅像としての銅像そのものの原因である。ただし同じ意味においてではなしに、青銅はその質料(ヒレー)因としてであり彫像術は彫像運動の出発点[始動因]としてである。第二には、物事が互いに他の原因たりうるということである。たとえば、労苦は幸福の原因であり、幸福はまた労苦の原因である。ただし同じ意味でではなくて、後者は終り(テロス)[目的因]としての原因なのであり、前者は運動の始まり[始動因]としてそうなのである。さらに第三には、同じものが互いに相反する物事の原因でもありうるということである。というのは、そのものが現在すれば或る物事の原因であるであろうところのその同じものを、それが不在のときには、時として我々は、その物事とは反対の物事に対して責めがある[すなわち反対の物事がおこった原因である]とするからである。たとえば、舵手の現在が船の安全の原因でありえた場合、我々はその舵手の不在を難船の原因であるとしてかれを責める。ただしここでは、どちらも、現在も不在も、ともに動かすもの[始動因]としての原因である。