「プラトニック・ラブ」にみるイデア論

美しいものは生成消滅する

美そのものは永遠に留まる

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 第1章概説へ


 「プラトニック・ラブ」という言葉を聞く。プラトン的愛という意味である。それはしばしば、肉体的愛から高められた精神的愛を意味するものとされるが、そうなのだろうか。高められるとか、精神的という語の語義を調べるだけでは「プラトン的愛」の本当の内容をつかむことは出来ない。プラトンは愛についてどう語ったのだろうか。実は、これこそが「イデア」に行き着く。そこで「プラトニック・ラブ」を論じながら、プラトンのイデア論の持ち味を味わってみよう。

 まず、愛とか恋愛(エロス)というとき、それは性や性欲だけについていうのではない。これは注意しなければならない。もっと広く「美」について、さらには「善」「真」を求める、あたかも故郷を求めるような、魂の向かい方が愛なのである。現代のアリストテレス解釈者として有名なロイド(G. E. R. Loyd)がそこをうまくまとめている。それを紹介しよう。

 まず、プラトンは、永遠で不変のイデアだけが真の実在とし、変化する事物にどんな実在性も与えない、というほどに徹底していたわけではない。そうらしい場合もある。しかしむしろ、存在には、真存在と第二義的な存在、あるいは不可視的なものと可視的なもの、純粋に在るものと純粋に在らぬもの、と存在のしかたの区分を明確にしている箇所がいくつかみられる。

 プラトンが設定したこのような存在の種々の区分を明らかにするためには、この区分が適用される最も重要な問題、すなわち道徳的・美的価値の問題について考えることが適当であろう。この領域において彼はもちろんソクラテスの教え示したところに従ってこれを発展させている。初期の対話篇においてプラトンは、「美とは何か、正義とは、勇気とは、また敬虔とは何か」を問うソクラテスを描き、それに対する答が、たいていの場合、論じられている性質ないしは徳性の一例にすぎなかったことを示している。そしてこのような事態が起る場合にソクラテスは、美そのものと美のいちいちの実例とを区別しなければならぬことを注意し、実例をあげることは、「美とは何か」という型の問への答としては不十分であることを強調している。むろんソクラテス自身がはたして、問題の美や正義や勇気がどんな種類の対象であるかを一つの明確な定式で表明したかと言えば、それはきわめて疑わしいが、しかしすくなくともプラトンは、『パイドン』『饗宴』以降の著作において、これに着手していることは明らかである。そしてプラトンは美そのものと美しい個物とを区別することから進んで、さらに両者を対比させるに至っている。美そのものは美以外のいかなるものでもなく、いつでも、どこでも、誰にでも、まさに美であるようなものである。これに対して、多であるそれぞれの美しい個物は美そのもののほかに、別の性質をも含んでいる。たとえばある美しい婦人という例をとって見るとそこには背の高さ・低さ、金髪・黒髪、媼・乙女、といった性質が含まれている。さらにこの人はある人にとっては美しいが、他の人からみれば醜いかもしれず、ある点では美しいが、他の点では美しくないかもしれず、またある時には美しくとも、別の時には美しくなくなるかもしれない。なかでも最も重要なことは、個々の美しいものは生成消滅するが、美そのものはそのような運命にさらされることなく、そのままに留っている、ということである。このように美そのものと、美しい個々のものを区別するところから出発して、この二つをその存続性・永遠性・実在性の点で対照させるという一歩は、ただの一歩であるが、しかしきわめて重要な一歩なのである。

 イデア論によってプラトンは、言葉の最も完全な意味において実在すると言われるに価するもの、および最高の種類の知に属するものを考えざるを得なくなった。個々のものはこのイデアを分有する度合にしたがって、その限りにおいて実在する。しかし真の意味において存在するものは、個々のものを離れてもそれとは独立に存在するイデアであり、また知の最高の形態は、個々の経験に先んじて存在するもの[たるイデア]を対象とする知である。そしてこれをわがものとするためには、魂は肉体と絶縁して、できうる限り自己自身の機能を発揮しなくてはならぬ。こうしたことがイデア論においてはくり返し強調されている。

この強調部が、まさに「プラトニック・ラブ」の魂の働きなのである。