アリストテレス『形而上学』

すべてのものの存在のおこり

学問のいろいろ

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 第1章概説へ


 我々の求めているのは、諸存在の原理や原因である、ただしここでは、言うまでもなく明らかに、存在としての諸存在のそれらを求めているのである。というわけは、たしかに健康であることや仕合せであることなどにも原因があり、数学的諸対象にも原理とか構成要素(ストイケイア)とか原因とかがあり、そして一般にあらゆる推理的な学やなんらかの推理知を含む学は、厳密ににせよ粗略ににせよ、なんらかの意味で原因や原理をその対象として求めておりはする。しかしこれら諸学は、それぞれ或る特定の存在や或る特定の類を抽き出してこうした存在の研究に専念しているが、しかし(1)存在を端的(ハプロース)に、すなわち存在をただ存在として研究するものではなく、また(2)その研究対象のなにであるか〔本質〕についてはなんの説明もしないで、かえってこれから出発している、すなわち、これら諸学の或るものはこれを感覚に自明的であるとし、他の或るものはそのなにであるかを仮定として許しておいて、ここからそれぞれの対象とする特定の類の存在についてそれの自体的諸属性を或るものは必然的に或るものは粗漏に論証している。だからして、諸存在の実体や本質を論証することは、明らかにこのような帰納方法(エパゴーゲー)によっては不可能であって、或る他の解明方法によらねばならない。同様にまた、(3)これらの諸学は、その対象として専念するところの存在の類が果して存在するか否かに関しても、すこしも語らない。−それというのも、もののなにであるかを明らかにすることとその果して存在するか否かを明らかにすることとは、同じ性質の推理力の関することであるからである。−

 ところで、(1)自然学もまた、現に〔他の諸学と同様に〕或る特定の類の存在を対象としている、すなわち、この学はそれの運動や静止の原理(アルケー)〔始動因〕をそれ自らのうちに含んでいるようなそのような種類の実体〔すなわち自然(フイシス)を原理とする自然的存在〕を対象としている。だがそれゆえに、この学が実践的な学でもなく制作的なそれでもないことは明らかである、−なぜなら、制作される事物においては、この事物の外にあるところの制作者の内にその原理(アルケー)があるからであり(そしてこの原理は制作者の理性か技術かあるいはそうした或る能カである)、また行為〔実践〕される事柄においても、その原理は行為する者のうちにあるからである(すなわちこの原理は行為者の選択意志である、というのは、行為される事柄と選択される事柄とは同じだからである)。−したがって、もし思想的なことのすべてが実践的(プラクテイケー)〔行為的〕であるか制作(ポイエーテイケー)〔生産的〕であるか理論的(テオーレーテイケー)〔観照的・研究的〕であるかのいずれかであるとすれば、この自然学は理論的な学の一種であろう、しかしこれは運動しうるような種類の存在に関する理論的な学であり、多くの場合ただその質料と離れないで存するものとしてのみ定義されるところの実体に閲する学であろう。ところで、ここに明らかにしておかねばならないのは、事物の本質やその説明方式がどのようにあるかということである。これを知らないと、我々の探求も無駄であろう。さて、定義される当のものども、すなわちそれのなにであるか〔本質〕が問われている当のものどものうち、その或るものは「シモン」のごときであり、或るものは「凹み」のごときである。そしてこの両者はつぎの点でちがっている、すなわち、「シモン」はその質料との合体であるが、−というのは、「シモン」は「凹んだ鼻」だからであるが、−「凹み」そのものは感覚的質料なしに〔全くの形相として〕存するものである。そこで、もしすべての自然的事物がこの「シモン」のごとき結合体であるならば、−というのは、たとえば、鼻・目・顔・肉・骨および一般に動物や、葉・根・樹皮および一般に植物など、これらの自然的事物は、いずれもそれの説明方式のうちに運動が含まれねばならず、つねに質料〔運動の可能性〕と結合されているからであるが、−そうだとすれば、このような自然的事物についてそれらのなにであるかをいかに探求し定義すべきであるかは明らかであり、またなにゆえに自然学の研究者が霊魂についてもその或る部分を、すなわちその質料から離れては存しえないものとしてのかぎりの霊魂を、研究対象とすべきであるかということも明らかである。