セネカ『幸福な人生について』(13)

エピクロス派は不品行の学説というのは正しくない.

徳には度を越すという心配はない.

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 第3章概説へ


13 私はといえば、実は次のような見解をもっている。もっとも、こんなことを言うと、われわれストア派の仲間は嫌がるであろうが。すなわち、エピクロスの説くところは崇高であり、また道徳的にも正しく、間近に寄ってよく見れば、厳格でさえもある。つまり、彼の説く快楽なるものは、結局は小さな狭い範囲に帰着するのであって、われわれストア派の者が徳のために主張する法則と同じ法則を、快楽のために主張している。彼が命ずるのも、快楽を自然に従わしめよ、というのである。ところで、自然の欲求だけを満足させるものは、贅沢とはほとんど言えないものである。

 では一体どういうわけだろうか。怠けて何もせず、美食と色情とに交亙にふけることを幸福と呼ぶ者の誰もが、悪行を正当化するのに都合のよい権威者を求めるのは。そして、魅力のある名前に引かれてエピクロスのところに来ると、教えに聞いた快楽を追うのではなく、自分が持ち込んだ快楽を追うのは。そして、自分の悪行は教えに適ったものだと思い始めるようになれば、もはや恐る恐る悪行にふけるのでもなく、人に内緒で贅沢するのでもなく、そうなればもう頭一つ隠さないのは。だから、われわれの仲間は大概、エピクロス派は不品行を教える学派だ、と言うが、私はそうは言いたくない。

 私としてはこう言う−この学派は悪名が高く評判は悪いが、しかしそれは当らない−と。奥深く入ることを許されなければ、誰がこのことを知り得よう。この学派の外づらそのものが、勝手な作り話の余地を与え、悪いたくらみを起こさせる。それは、たとえは屈強な男子が女装したようなものである。君の忠節には変わりなく、男子たるの美点も損(そこな)われず、君の身体は何ら恥ずべき目に会うこともないが、しかし手には鼓(つづみ)をかかえているではないか。願くは名称には立派なものが選ばれ、表題にはそれだけで心を目覚ますようなものが選ばれて欲しい。今あるような表題には、悪徳ばかりが集っている。

 誰にせよ、徳に親しんでいる者はみな高貴な天性の証拠を見せている。ところが、快楽を追う者は気力を失い、意気を沮喪(そそう)し、男性から遠ざかっているように見える。また誰も、快楽の区別を彼に教えない。従って、もし誰かが彼に快楽の区別を教え、快楽のうちどの快楽が自然の欲求の範囲に留まるか、どの快楽が向う見ずに突進して留まるところを知らず、満たされれば満たされるだけ一層飽くことを知らなくなるか、などを知らせないかぎり、やがては恥ずべき行為に走る者となるように思われる。さあ、徳を先に立たせよう。足どりは一歩一歩と危げなく進んで行くだろう。それに、快楽は度を過ごせば害になるが、徳には度を過ごすのではないかという心配はない。徳そのものに節度があるからである。自分が大きくなり過ぎて困るものは善ではない。

 更にまた、すでに理性的な自然の素質に恵まれている者には、理性ほど立派なものが期待されるであろうか。仮に君の言う快と徳との結合を良いことと思い、両者相たずさえて幸福な人生に進むことを良いと思っても、まず徳を先に立たすべきであり、快はそれに伴わせて、肉体の周囲を影のごとくに付きまとわせるがよい。しかし、最も優れた主人である徳を、小間使いとして快楽に引き渡すことは、心に何ら偉大なるものを持たない人間のすることである。

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