−アンナは今や人生と人間関係との意義を彼女に啓示してくれた鋭敏な光りのうちにこのことをはっきり見てとったのである。
<<あたしの愛はますます激しく、利己的なものになってゆくのに、あのひとのはいよいようすれてゆく、だからこそあたしたちは離れてゆくのだ>>、−と彼女は考えつづけた。<<しかもこれはどうすることもできないのだ。あたしのすべてはあのひとひとりにあるのだから、あたしはあのひとがそのすべてをもっともっとあたしに捧げてくれるように求める。ところが、あのひとはいよいよあたしから遠ざかろうとしている。わたしたちは結びつくまではそれこそ両方から向いあって近づいていったのに、あとになると、別々の方向へどうしようもない力で離れていくんだわ。しかもそれは変えようがないのだ。あのひとはあたしがわけもなく嫉妬すると言うし、わたしもわけもなく嫉妬すると自分に向って言いもしてきたが、でもそれはほんとうじゃない。あたしは焼餅やきじゃなくて、満たされないのだ。だけど……>>
−彼女はふと頭に浮んだある考えにそそのかされて興奮のあまり思わず口をあけて、馬車の中で席をうつした。<<もしもあたしが彼の愛撫だけをはげしく好む情婦以外のなにものかになれたとしたらどうだろう、でも、いまさらあたしはほかのものには決してなれっこはないし、なりたいとも思わないわ。それにその望みがあるばかりにあたしはあのひとにいやがられ、あのひともあたしに敵意を抱かせることになるのよ。でも、これはそうなるより仕方がないんだわ。あたしだってあのひとがあたしをだましたりしないことも、令嬢のソローキナなんかに気のないことも、キチイに恋なんかしていないことも、あたしを裏切ったりしないことも、百も承知だわ。そんなことはなにもかもみんな分っているんだけれど、それでいてあたしの気持はらくにはならない。かりにあのひとがあたしを愛していないのにただの義務であたしに親切にしてくれたり、やさしくしてくれるのだったら、あたしの望むものは与えられるはずはないわ、−そんなのはかえって憎しみよりも千倍もわるいことだわ!それはもう−地獄よ!ところが現にそれがそうなのだ。あのひとはとうの昔からあたしを愛してなどいないのだ。そして愛の終るところから憎しみが始まるんだわ。
こんな通りはあたしはちっとも知らない。丘みたいなものがあって、それに家ばかり、家ばかり……そして家の中には人ばかり、人ばかり……どのくらいいるのか、きりがない、そしてみんなお互いに憎みあっている。さて、あたしは自分が幸せになるためになにを望んでいるのか、考えさせてもらいたいわ。ではどうだというの?あたしは離婚の承諾をもらう、良人のカレーニンはあたしにセリョージヤを渡してくれる。そしてあたしはウロンスキイの妻になる、としよう。>>カレーニンのことを思いだすと彼女はとっさに異常な生まなましさで彼の姿を、おだやかな、生気のない、消え入るような眼ざしや、白い手に浮いた青い血管や、声の抑揚や、指をポキポキ鳴らす音まで想像できた。そしてふたりの間にあった、これもやはり愛情と呼ばれていた感情を思い浮かべると、彼女は嫌悪の情に思わず身ぶるいした。
<<では、あたしは離婚の承諾をもらって、ウロンスキイの妻になる、としよう。そうすれば、果してキチイは今日のような眼つきであたしを見るのをやめるだろうか?だめだわ。では、セリョージャはあたしの二人の良人のことをたずねたり、考えたりしなくなるだろうか?それに、あたしは自分とウロンスキイの間にどういう新しい感情が思いつけるというのだろうか?今さら幸福などというものではなくても、せめて苦悩でないものというわけにはいかないかしら?いいえ、とてもだめよ!>>−彼女は今は少しの躊躇もなく自分にそう答えた。−<<そんなことはあり得ないわ!あたしたちは生活によって別々にさせられていくのだ。そしてあたしはあのひとの不幸をつくり、あのひとはあたしの不幸をこしらえてゆく。あのひとをも、あたしをもつくりかえることはできない。あらゆる試みはしつくした。ネジは巻けるだけ巻いたのだ。おや、赤児をつれた女乞食がいるわ。あの女はきっとあたしが気の毒がっていると思っているだろう。ところがあたしたちはみんなお互いに憎みあい、苦しめあうためにだけこの世に投げだされているのではないか。中学生たちが歩いてゆく、笑っている。セリョージャは?>>−彼女は思いだした。
−<<あたしもやっぱり自分はあの子を愛していると思っていた。 そして自分のやさしさに感動していた。ところがあたしはあの子なしに生きていたし、あの子をほかの恋に見変えて、そしてその恋に満足している間はその交換に不平も言わなかったじゃないか>>。そして彼女はその恋と呼んでいたものを嫌悪の情とともに思いだした。また今や彼女には自分やすべての人々の生活というものがはっきり見届けられたが、その明確さは彼女を喜ばせた。<<このあたしだって、ピョートルだって、御者のフョードルだって、あの商人だって、あの広告が誘致しているヴォルガ沿いに住んでいる人たちだって、みんな同じなのだ。どこへいっても、いつになっても>>−彼女がそんなことを考えているうちに馬車は既にニジェゴロド駅の低い建物に近づき、荷物運びの人夫たちが彼女の馬車をめがけてかけだしてきた。
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