カミュ『シジフォスの神話』

人生は生きるに値するか否か.

ガリレオの背信はむしろ当然.

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 第3章概説へ


不条理と自殺

 本当に重大な哲学の問題は一つしかない。それは自殺である。人生が生きるに値するか否かを判断すること、これこそ哲学の根本問題に答えることである。それ以外のこと、世界は三つの次元をもっているかどうか、精神は九つの範疇をもつのか十二の範疇をもつのか、などというのは、それから後の問題である。こういったことは遊びである。何よりさきに、先ず哲学の根本問題に答えなければならない。そしてもしも、ニーチェが望んでいるように、哲学者というものは身をもって教を説いてこそ哲学者たりうるということが真実であるとするならば、その時この答の重大さが納得できるのである。なぜならこの答は、次に決定的な行為を導きだすものだからである。これは心情にはじかに感じられる明白な事実だが、しかし更にこの事実を深くえぐって、精神に明らかにこれを把握させるようにしなければならない。

 或る問題が別の或る問題よりも緊急であると判断する基準は何であるかを考えてみる時、私は、その或る問題が惹き起す行為が基準である、と答える。未だ嘗て私は、存在論的な論証から人が死ぬのにであったことがないのである。ガリレオは重大な科学的真理に信奉して動かなかったが、そのために自分の命が危なくなるや、まことにやすやすとその科学的真理を放棄した。 或る意味では、これは当を得た振舞であった。 そんな真理は、ために火あぶりされるには値しない。 地球が太陽の周りをまわるのか太陽が地球の周りをまわるのか、これは実際のところどうでもよいことなのだ。 言ってしまえば、これはくだらない問題だ。 これに反して私は、多くの人間が、人生は生きるに値しないと考えるが故に死んでゆくのを眼にしている。また私は、自分達に生存理由を与える観念や幻想のために殺し合いをするという自家撞着を犯している多くの人間をも眼にしている。(生存理由と呼ばれているものが、同時にまた立派な死亡理由なのだ。)だから私は、人生の意味こそ最も緊急な問題であると判断する。この問題にどう答えるべきか。すべての本質的な問題については、−本質的な問題とは、時として人を死なしめるおそれのある問題、或は生きる情熱を十倍にもする問題のことを私は言うのだが−、そんな問題については恐らく二つの思考の方法、即ちラ・パリス(註−1525年戦死したフランスの勇将。非常に勇敢に戦った為「死の15分前彼はなお生きていた」と歌われた。これは自明の理である。)の思考の方法とドン・キホーテの思考の方法としかないだろう。そしてこの二つのもの、即ち明証と抒情、との均衡によってのみ、私達は、人生は生きるに値するかどうかという問題に答えるに必要な感動と明晰とに同時に近づくことができるのである。それ故非常に慎ましく同時に非常に悲痛にみちたこのような主題にあっては、衒学的且つ講壇的な辯証法が、良識と共感との双方から生ずる一層謙譲な精神の働きに席を譲らねばならぬことがわかるのである。