ひとつお考えいただきたい。自由だ、とは、なんのことです?自分の望みどおりの生きかたができる、ということでしょう。では、自分の望みどおりの生きかたをしているのは、だれなのです?それは、正しいことを、そのまま実行している人だけなのです。義務に喜びを感じている人だけなのです。自分が辿(たど)る人生の道を深く考え、さきざきまでその見通しをつけている人だけなのです。国法にたいしても、恐怖心に基づく追従はおこなわず、なにより身の幸いとなるようなおこないとは、こうやってこそできるものなのだ、という自分の断定に基づいて、国法に敬意のこもった服従をしている人だけなのです。そのことばも、そのおこないも、いや、その胸の思案までも、自分の心(しん)からの希望に添ったのびやかなものばかりである、そういうふうな人だけなのです。
こういう人の企画はすべて、その行動はすべて、この人だけから生まれ、その報いも、やはり、この人のうえだけに及ぶのです。 この人の見るところ、自分の意志、自分の断定に優(まさ)る値打ちのあるものは、ひとつとしてありませぬ。いやもう、こういう人になら、強烈無比の力を持つと言われているあの運命の女神さまでも、降参なさるにきまっている。昔の賢い詩人のことばにもあるように、「自分自身の常(つね)の習いが、各人の運命を作りあげる」、というのでしたら。
以上のようなわけで、意に反するようなおこないなど、悲嘆に暮れてのおこないなど、強制されたおこないなど、まったくしなくてすむのだ、という幸いは、もっぱら賢者だけに授かるのだ、と申すべきです。
もちろん、このことが真理である理由は、もっと詳細に論じられるべきですけれども、ともかく、さきほどのことばそのものは、いかにも簡明なのですから、ひとまず承認されるべきです。たしかに、いま申したような精神状態の人だけを、自由の人と見るべきです。
ですから、奴隷なのですぞ。ならず者は、ひとり残らず、奴隷なのですぞ。これは、ことばにして述べると、常識外(はず)れの奇想天外な説になるようですが、事実そのもののうえでは、それほどでもないことなのです。
というのは、このばあいの奴隷ということばは、抵当権とか、わがローマ市民のあいだにおけるなにかほかの法律とかに基づいて、世の主人たちの所有物になっている、あの奴婢(ぬひ)どもを指しているのではないのですから。むしろ、奴隷状態とは、精神が、気力を失い、滅入(めい)ってしまって、自分で決断をくだすことができなくなったために、自分以外のものにたいして盲従していることなのだ、とすべきでしょう。いや、たしかに、そのとおりです。
そうだとすれば、思慮が浅い者はひとり残らず、欲の虜(とりこ)はひとり残らず、要するに、ならず者はひとり残らず、奴隷なのだ、ということを、だれが打ち消すことができましょう?
・第2、第5下線部以外引用者