ルソー『エミール』

人は知識によって幸福になるか.

感覚を,確かめた後,観念にする.

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 第3章概説へ


 (前略)

 われわれの誤謬(ごびゅう)はすべてわれわれの判断から生まれるのであるから、もしけっして判断する必要がないとしたら、われわれは全然学ぶ必要がないということは明瞭(めいりょう)である。われわれはけっしてまちがえるようなことにはならないだろう。われわれは自分の知識によって幸福になりうる以上に、自分の無知によって幸福になることだろう。学者たちが、無知な人々のけっして知ることのないであろうほんとうのことを、たくさん知っているのをだれが否定しよう。だからといって彼らはより真実に近いであろうか。それどころか、進むにつれて彼らは真実から遠ざかる。なぜなら、判断するという虚栄心は知識よりも先にどんどん大きくなってしまうので、彼らが一つの真実を学ぶことに、百のまちがった判断がいっしょについてくるからだ。ヨーロッパの諸学術団体が、うそを公然と教える学校にすぎないということは、だれの目にも明らかだ。そして、科学アカデミーに、ヒューロン族全体よりも、もっとたくさんの誤りがあるということは、まったく確実だ。

 人間は、知れば知るほどまちがうのであるから、誤りを避ける唯一の手段は無知でいることだ。判断するのをやめなさい。そうすれば、あなた方はけっしてまちがうことはないのだ。これは自然の教えであるとともに、理性の教えでもある。事物がわれわれに対してもっているきわめてはっきりした、きわめてわずかな直接的関係を除けば、その他すべてのものに対して、われわれには本来深い無関心があるだけなのだ。未開人は、すばらしい機械の動きや、電気のあらゆる奇跡を見に行くために足を向けることはしないだろう。《わたしになんの関係があるのだ》というのが、無知な者のよく言うことばであり、また賢者にとって最もふさわしいことばである。

 しかし残念ながら、このことばは、われわれには不適当である。われわれがすべてのものに依存している以上、すべてのものは、われわれに関係がある。そして、われわれの好奇心はわれわれの必要とともに必然的にひろがってゆく。それゆえにこそわたしは、哲学者にはたくさんの好奇心があると思い、未開人には全然ないと思うのだ。後者はだれをも必要としないが、前者はすべての人を、とりわけ崇拝者を必要としている。

 あなたは自然から踏み出している、とみなさんはわたしにおっしゃるかもしれない。わたしはそう思わない。自然はその道具を選び、それを、人々の意見にではなく必要に基づいて調整する。ところで必要は人間の状況に応じて変わる。自然のなかに生活している自然人と、社会状態のなかに生活している自然人とのあいだには、大きな差異がある。エミールは荒野に追いやるべき未開人ではない。彼は都会に住むようにつくられた未開人だ。彼はそこで自分に必要なものを見つけ、そこの住民たちを利用して、彼らのようにではないにしても、とにかく彼らといっしょに生活してゆかなければならないのだ。

 多くの新しい関係の真ん中にあって、これから彼はそれらに依存することになり、いやでも判断しなければならなくなるのであるから、彼に正しく判断することを教えようではないか。

 正しく判断することを学ぶいちばんよいやり方は、われわれの経験をできるだけ単純化し、さらに、経験しなくても誤りに陥らないでいられるようなやり方だ。その結果、諸感覚のいろいろな証言を、互いに他の感覚によって念入りに確かめた後、さらにそれぞれの感覚のいろいろな証言をその感覚自体によって確かめ、他の感覚にたよらなくてもすむようにすることを学ばなければならない。そうすれば、それぞれの感覚はわれわれにとって一つの観念となり、そしてこの観念は常に真実と合致したものになろう。このような経験によって、わたしは人生の第三の時期に満たそうと努力したのである。(後略)

・下線引用者