(4 真の快)
それゆえ、快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、−一部の人が、われわれの主張に無知であったり、賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとはちがって、−道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体においての苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)こととにほかならない。けだし、快の生活を生み出すものは、つづけざまの飲酒や宴会騒ぎでもなければ、また、美少年や婦女子と遊びたわむれたり、魚肉その他、ぜいたくな食事が差し出すかぎりの美味美食を楽しむたぐいの享楽でもなく、かえって、素面の思考(ネー.□ーン・ロギスモス)が、つまり、一切の選択と忌避の原因を探し出し、霊魂を捉える極度の動揺の生じるもととなるさまざまな臆見を追い払うところの、素面の思考こそが快の生活を生み出すのである。
(5 思慮)
ところで、これらすべての始源であり、しかも最大の善であるのは、思慮である。このゆえに、思慮は知恵の愛求(哲学)よりもなお尊いのである、恩慮からこそ、残りの徳のすべては由来しているのであり、かつ、思慮は、思慮ぶかく美しく正しく生きることなしには快く生きることもできず、快く生きることなしには<思慮ぶかく美しく正しく生きることもできない、>と教えるのである。というのは、残りの徳はみな快く生きることと由来をともにしているのであり、快く生きることは、それらの徳から離すことができないからである。なぜなら、だれがつぎのような人よりすぐれていると、君は考えるか。すなわち、神々については敬虔な考えをもち、死についてはつねに恐怖をいだかず、自然的な目的(快)をすでに省察しており、善いことどもの限度(苦しみのないこと)は容易に達せられ容易に獲得されるものであるし、悪いことどもの限度は、時間的にも、痛みの点でも、わずかであるということを理解しており、また、一部の人が万物の女王として導き入れたところの<運命(必然性)>を嘲笑している人、このような人より以上にだれがすぐれていると、君は考えるか。
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