2 死はわれわれにとって何ものでもない、なぜなら、(死は生物の原始的要素への分解であるが)分解したものは感覚をもせない、しかるに、感覚をもたないものはわれわれにとって何ものでもないからである。
3 快の大きさ(量)の限界は、苦しみが全く除き去られることである。およそ快の存するところ、快の存するかぎり、肉体の苦しみもなく、霊魂の悩みもなく、これら二つがいっしょにあることもない。
5 恩慮ぶかく美しく正しく生きることなしには快く生きることもできず、快く生きることなしには<思慮ぶかく美しく正しく生きることもできない。>快く生きるということのない人は、思慮ぶかく美しく正しく生きないのであり、<思慮ぶかく美しく正しく生きるということのない人は、>快く生きることができないのである。
8 いずれの快も、それ自身としては悪いものではない。だが、或る種の快をひき起すものは、かえって、その快の何倍もの煩いをわれわれにもたらす。
9 かりにどんな快でも、すべて強度の高まるものであり、時間的にも長くつづき、われわれの全体織体(人間を構成する霊魂と肉体との原子の集合体)もしくは自然の最も重要な部分(とくに霊魂)占めるものであるとすれば、快は、決して、互に質的には異ならないものだということになるであろう。
17 正しい人は、最も平静な心境にある、これに反し、不正な人は極度の動揺に満ちている。
18 欠乏による苦しみがひとたび除き去られると、肉体の快は(限度に達して)もはや増大することなく、その後は、ただ(質的に)多様化するのみである。精神の快にかんする限度は、これまで精神に最大の恐怖を与えてきたまさに当のことがら(神々と死)、および、これらと類を同じくすることがらについて熟考することによって、生み出される。
21 生の(生の目的なる快の)限度を理解している人は、欠乏による苦しみを除き去って全生涯を完全なものとするものが、いかに容易に獲得されうるかを知っている。それゆえに、かれは、その獲得のために競争を招くようなものごとをすこしも必要としない。
22 われわれは、人生の真実の目的(肉体において苦しみなく、心境において平静なこと)と、われわれがもろもろの判断を帰着させるあの全き明瞭性とを、考慮すべきである。もしそうしないならば、万事は、非決定と混乱とでいっぱいになるであろう。
27 全生涯の祝福を得るために知恵が手に入れるものどものうち、友情の所有こそが、わけても最大のものである。
28 永遠に(死後にまでも)つづくような恐ろしいものはなく、また、長いあいだつづく恐ろしいものもない、ということについて、われわれに安心を与える認識(真の知恵の愛求による認識)と同じ認識によって、われわれは、この有限な存在においては、友情による損われることのない安全こそが最も完成されたものであるとのことを、知る。
29 欲望のうち、或るものは自然的でかつ<必須であり、或るものは自然的だが>必須ではなく、他のものは自然的でも必須でなくて、むなしい臆見によって生まれるのである。