哲学はなにを約束するか
ある人がエピクテトスに、「どんなふうに兄弟を説得したら、もうこれから自分にたいして、つらく当たらないようにすることができるでしょうか」と相談すると、彼はいった。「哲学は人間にとって、外物のなにかを得させるとは約束しない。もしそうでなければ、それは固有の材料以外のなにかを請け合うことになるだろう。というのは、材木が大工の材料であり、銅が鋳像家の材料であるように、それぞれの生活は、人生にかんする生き方の材料なんだから」
そうすると、私の兄弟の生活はどうなんですか。
それもまた彼自身の生き方に属するものであって、きみの生き方にたいしては、ちょうど土地や健康や名誉と同じく、外物に属するわけだ。だが、それらのどれをも哲学は約束しない。「私(=哲学)はどんなばあいでも、指導能力を自然にかなうように保持するだろう」と哲学は約束するのだ。
だれの指導能力をですか。
「私(=哲学)を所有している者の指導能力をさ」そうすると、どうすれば彼は私を怒らないでしょうか。
「わしのところに彼を連れてくるがいい、そうすれば彼に話してやろう。だが彼の怒りについては、わしはきみになにもいうことができない」その相談にきた者が、「たとえ兄弟が仲直りしないとしても、どうすれば私が自然にかなうことができるかということこそ、私の求めているものです」といったとき、エピクテトスはいった。
「なにごともだいじなことは、突如として生ずるものではない、一房の葡萄(ぶどう)や一個の無花果(いちじく)のばあいでもそのとおりである。もしきみがいまわしに、『私は無花果がほしい』というならば、わしはきみに、『そのための時間が必要だ』と答えよう。まず花を咲かせるがいい、つぎに実を結ばせるがいい、それから熟(う)れさせるがいい。無花果の実は、突如として、そして一時間のうちにできあがらないのに、きみは人間の心の実を、そんなに短時間に、やすやすと所有したいのか。わしはきみにいうが、それは期待しないがいい」・下線部引用者