すべて人は幸福をもとめる。「幸福」とは何かについて考えるとき、富、名誉、力、健康、長命であれ、何であれ、すべてのひとが答をもっている。幸福は哲学者のものではなく哲学以前であり、幸福論はきわめて古い歴史をもっている。西洋でみれば、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの哲学よりも古い。自然哲学者デモクリトスは、ふつう、世界の根源として「原子」の概念を立てた人として近代において有名であるが、体系化されていないものの、多くの倫理説を格言や体験として残している。その幸福論は独特な風格があるもので、高貴な自己中心主義に人の魂の安らぎがある、という。何はともあれ、幸福は何らかの快楽にあるという定義に照準が合ってきている。これは、後世のストア哲学者セネカも『心の平静について』で引用している。
しかし、やはり、幸福についての最初の本格的な哲学的論議は、プラトンとアリストテレスによってはじめられる。プラトンの幸福は、哲学的に最高にして真なるもの(イデアの世界)の追求と認識の生活にある。感性的なものから自我や人格がはっきりと区別されて切り取られ、その全体的完成がめざされているのは、最初の理想主義者ともいうべきプラトンにふさわしい。この幸福の定義は、新プラトン主義(3−6世紀)、およびそれと形影相伴うキリスト教の教義の形成と発展につれて、次第に超越的かつ宗教的になってゆく。
プラトンと異なり、本質の観想(テオリア)だけでなく実践(プラクシス)をも重視したアリストテトレスは、幸福(エウダイモニア)を倫理の究極目的、行動の基準とし、まさに「幸福主義」倫理学の体系をうちたてた。その中心的著作『ニコマコス倫理学』第七章では、幸福の定義が与えられている。
幸福は、人間の人生の目的として最高善であり、神から与えられるものでなく人間として求めることのできるものである。人間は運命からも自由である。幸福ははっきりと此岸(こちらがわ、われわれの生きているこの世)の「徳」なのであり、その意味では近代の功利主義に通じるが、相異点は、近代功利主義は感覚に基礎をおくのに対しアリストテレスの幸福は人生の最高善の追求に基礎がある、という点である。19世紀思想家ジョン・スチュアート・ミルによれば、アリストテレスは「公正な功利主義者」なのである。
つぎに、われわれは、ストア派の禁欲主義の幸福論について語らねばならない。ストア派はヘラクレイトス(万物は火であり、流動転変する、しかしそのなかに本質があるとした)のロゴス説に発し、古くはキプロスのゼノンによって派をなし、中期にはプラトン、アリストテレスの説を容れ、後期にはローマ帝政期に入って、皇帝ネロの宰相となった後に死を命じられるセネカ、解放奴隷から哲学者となったエピクテートス、賢帝マルクス・アウレリウスを輩出した。ストア派も、それと対照して考えられるエピクロス派も、著しい特徴はその個人主義的傾向である。それは、アレキサンダーという一人の人が来て(ヘーゲル)、そのために良きポリス共同体が滅び去った後、人間がヘレニズムの広い世界にひとりひとりとなって投げ出されたという体験に照応している。
ストア派の幸福は、唯一者に従い世界の秩序を従容として受入れ、その服従によって自由を得る人生の徳にある。個人の理性に対する静かで強い信頼、意志の独立がそこに見出される。後世ヘーゲルもこの理性の卓越性を称賛した。それはセネカの『幸福な人生について』に述べられている。
ストア主義は近代においてショーペンハウアーという表現を見出した。それは消極的な幸福追求であるが、積極が美徳、消極が悪徳というわけではない。世の「快楽主義者」はいわゆるエピキュリヌン(エピクロス主義者)で通している。「もし単に快楽の追求が幸福なら、むしろ私が求めるのは人間の善であって、胃袋の善ではない。胃袋は家畜や野獣の方が大きいではないか。」(セネカ)。エピクロスが『メノイケウスあての手紙』でいうように、本当の快楽主義(ヘドニズム)は、もちろんそのようなものではない。「平静」ということが大切なのである。ストア派のセネカにもこれはわかっていたので、エピクロスを崇高であるとさえいっている。それはセネカ『幸福な人生について』を読むとよい。
これは尊敬できるものである。また、明るい。だが、いかなるものであれ、キリスト教はエピクロスの快楽主義を拒否した。キリスト教の幸福は、「山上の垂訓」に示され、アウグスチヌス(初代キリスト教会最大の教父)によって決定的とされたように、原理的には此岸の拒否、彼岸(むこう岸、超越的なもの、永遠の神)の追求に魂のやすらぎを求めるものであり、快楽主義がどのように洗練されていても、いや、洗練されているがゆえに、人を永遠の生命から遠ざけるものとするのである。これに対し、後世ニーチェが『悲劇の誕生』などでキリスト教のこの傾向を論難したのは、人の知るところであろう。
哲学的には、あるいは社会科学的には、エピクロスの快楽主義は、個人の感覚的要求の充足という意味で近代功利主義の原型である。いまだ国家や市場が出現はしてはいないけれども、これらがそなわれば、快楽主義は、経済学的には、功利主義の理論的表現である「限界効用」の概念を通じて、現代社会の計画主義の哲学的一規準を与えたものといってよい。
われわれは中世を割愛しよう。
幸福は哲学以前であるといっても、古代が終わるころにはすでに、幸福についてひととおりの哲学的確信が得られていた、とはいえるであろう。「幸福」とは富や名声の中にあるのではなく、魂やその姿勢の内に基礎づけられる。理性的な洞察のない名声や富は「不確かな」財産である、と。
そうだとすると、「近代」それ自体が幸福と矛盾している。現代、人は、公的組織(国家)や私的組織(企業)のなかで生きざるを得ないし、名声は役割と紙一重であって、それが不確かでも逃れるわけにはゆかない。また、われわれは、市場の経済行為で生活の糧を得ざるを得ないから、不確かな富のゆえに市場を離れるわけにもゆかない。もちろん、必要と必要以上を区別せよという論は可能である。しかし、その差は、人間の生き方としてはきわめて相対的であって定まらず、問題はもとの幸福をめぐる哲学問題に戻ってしまうのである。
フランス革命は、人類史的に巨大な思想実験であったとともに、諸幸福学説のテスト場であった。とにかく、旧制度の証拠は刑罰制度ひとつ見れば具体的に明らかであった。かつて、ベッカリアが「犯罪と刑罰」で警告した不正な刑罰、ひどい野蛮が、いぜん支配していた。これは正真正銘の不正な法制度である。かれは幸福の分配について嘆いた。
「社会の利益はその全ての成員に普遍的に分たれなければならぬ。然るに、事実、人間の社会に於ては、この利益は最少数者の上に止まり、あらゆる権力と幸福とを少数者に、あらゆる貧弱と不幸とを残る多数者に集中せずにはおかない傾向が優勢なのである。」
フランス革命はまぎれもなくそれ自体一つの偉大な幸福の成就であった。「進もう、祖国の子らよ、栄光の日は来たれり」(ラ・マルセイエーズ)。革命の推進力ジャコバン派の青年雄弁家サン・ジュストのいうように、「幸福とは、ヨーロッパにおけるひとつの新しい観念」なのであった。もっとも、幸福はおびただしい革命のモットーの一つなのであって、フランス革命自体が新しい幸福の観念を生み出したことはない。むしろ成就した幸福の落着き先がはなから不確かであった。
マラー 「助けてくれ、いとしいもの!」
ロベスピエール 「いかなる道徳的観念とも縁のなかった男が、どうして自由の擁護者たりえようか。彼は悪徳に対して寛容を公言していたが、これによって、世界じゅうのありとあらゆる腐敗した人間どもを、味方として手に入れたのだ。」
ダントン 「ロベスピエールよ、お前もおれのあとからついてくるのだ………。」
このように、ひとえにこの「幸福」のために、フランス「人民の友」マラーは、確信犯人の見本ともいうべきジロンド派の少女シャルロット・コルデーの剣に倒れたのであり、ジャン・ジャック・ルソーの体現者にして、献身的な革命の使徒ロベスピエールも、自己の目的の高潔な道徳性を信じて、革命の僚友ダントンさえ断頭台に送った。かれはとみに妥協的になってきていた。そのダントンの最期の言葉どおり、ロベスピエールも革命の過激化を恐れたジロンド派を中心とする国民公会「中間派」によって失脚、同じく断頭台に送られる。後世、反動の代名詞となった「テルミドール(熱月)の反動」(1794年熱月9日)である。サン・ジュストもこのロベスピエールと同じ運命をたどる。
いかに自由が至高に道徳的でも、革命の課題はほどほどに成就しさらに血を流す政治は必要なく、その遂行者ジャコバン派の存在はいまや有害、危険である。これがかれら中間派(テルミドール派、テルミドリアンとよばれた)の共通の認識ないしは雰囲気であった。多くの変革、革命に共通な力学である。変革の敵はつねに内部にいるのであった。
今世紀の伝記作者ステファン・ツワイクは「ジョセフ・フーシェ」ある政治的人間の肖像」のなかで、中間派を支えた中産市民階級(プティ・ブルジョワ)について言っている。
「テロルは終わったが、革命の熱烈火のごとき精神もまた消えてしまい、英雄時代は去ったのである。いまや後継者の時代がきた。山師と利得者、掠奪者と二股膏薬、将軍と富豪の時代、新しい組合の時代がきたのだ。」
「熱月9日という日に世界史的意義を与えたのは、ロベスピエールの処刑ではなくして、その後継者たちのこのような卑怯な欺瞞的な態度にある。なぜならこの日まで革命はいっさいの正義正道を革命自体のために要求するとともに、いっさいの責任を平然とみずから負うてきた。しかしこの日以来革命は不正非道を犯すことをもおそるおそる許容し、こうしてその指導者たちは革命を否定しはじめたからである。しかしながらあらゆる精神的信仰、あらゆる世界観は、みずからの絶対的に正しいこと、みずからの過誤なきことを否定するやいなや、その最も内部的な力がすでにすでに罅(ひび)がはいってしまうものなのだ。こうして悲しき勝利者タリアンとバラーが、その偉大な先駆者ダントンやロベスピエールの屍に鞭打って殺人者の残骸とののしり、右翼派の椅子、すなわち穏健党、共和国の秘密の敵の側におずおずと席を占めるにいたって、彼らは革命の歴史と精神を裏切ったのみならず、自分みずからを裏切ったのである。」
多数派テルミドリアンの頭目の一人になるはずだったフーシェは、最も政治的に慧眼であった。彼は、昨日までの政敵彼をあすにも断頭台へ送ろうとしていた―ロベスピエールたちの後継へ回った。
「答えは簡単だ、彼[フーシェ]の考えはほかの連中よりも賢明であり、先見の明があったからであり、彼のすぐれた政治的悟牲が、自体を達観することにかけては、危険が迫ったために息の短いエネルギーを発揮したにすぎないタリアンやバラーのような鈍物に比し深奥なものがあったからのことである。かつて物理学の教師をやっていた彼は、およそ波というものが空間に静止するを得ないという動力の法則を知っていた。波は前進するか後退するかしなければならぬものであることを彼は知っていたのだ。だから今、後退がはじまり反動がはじまれば、これもまた前の革命と同様、衝撃を中止することはないであろう。ちょうど革命と同じように極端まで最極限まで、すなわち暴力に走るであろう。しかしそうなればにわか細工のこの同盟は必ず破れるに相違なく、そして反動が勝つとなれば、その時には革命の前衛闘士はすべて滅びてしまうのだ。なぜなら新しいイデーとともに昨日の行為に対する尺度もまた物騒なほどに変わってしまうからである。昨日までは共和主義的義務および道徳と見なされたことも………そうなれば必然的に犯罪と見なされるであろうし、昨日の原告は明日の被告となるであろう。」
いまでもよく読まれるミシュレの『フランス革命史』も描写する。
パリはふたたび陽気になった。なるほど飢饉はあった。しかし、ペロン小路は光を放ち、パレ・ロワイヤルには人が満ちあふれ、劇場は満員だった。………この道を通って、われらは巨大な墓場へとおもむいたのである。この墓場にフランスは五百万人の人々を葬った。
この「墓場」が総裁政府(テルミドール派権力)を、「ブリューメル(霧月)18日のクーデター」で転覆したナポレオン・ボナパルトの軍人独裁、「ナポレオン体制」であることはいうまでもない。以後、フランスはナポレオンの第一帝政、ついで王政復古、七月王政(七月革命)、第二共和政(二月革命)、第二帝政、第三共和政、………と、バスティーユが陥落した1789年から第三共和政成立の1870年まで実に80年間、栄光と転落の目まぐるしい変化と混乱を演出した。この演出者こそ「市民階級」(ブルジョワ)であり、19世紀は「ブルジョワの世紀」であった。このブルジョワがフランス革命自体の子であり、テルミドール派に端的に表現された醜悪さを内部に抱えているにせよ、「幸福」という「新しい観念」、そしてツワイクのいう「新しいイデー」がはらみ落した子であることは、まちがいなかった。
この世紀はまた功利主義にとっては手におえない時代であった。なぜなら、はじめ「情熱」が歴史を推進しその持ち主はみな確信犯であった。彼らは功利主義とは全く縁のない世界に生きていた。情熱が引いた後は、退屈と日和見主義が支配した。スタンダールは『赤と黒』で、「自己の情熱のために身を犠牲にする、それなら文句はない。しかしありもしない情熱のためにとは!ああ!いたましき19世紀よ!」と、王政復古期のフランスを形容している。ここでも功利主義の道徳性はむしろ愚昧、こっけいと見られた。むしろ、ブルジョワの世紀が提起した問題に対し、社会主義(マルクス)、実存主義(キェルケゴール)、実証主義(コント)は、それぞれの立脚点から幸福学説を形成することとなった。
人間はあやうい不確かな位置にいるのであって、それは過去も今日も、したがって未来も変わることはない。これは哲学的にもそうなのである。古く、プラトンは民主主義を低く評価したが、アリストテレスは哲人政治を望むべくもないものとして、民主主義の方を高く評価した。現代アメリカの経済学者アロウは、いくつかの自然な公理をもとにして、民主主義は内部に矛盾を含むことを証明したが、これはいつにかわらぬ人間の困難の数学的表現の一つである。
そもそも、エピクロスの感覚的な幸福論は、近代においてその近代版というべき「功利主義」をうみだした。「最大多数の最大幸福」(ベンサム)であらわされるように、これはそれ自体ひとつの幸福学説である。
もともと、感覚や経験は「人間」の自覚の確かな出発点と考えられ、その確信から「近代」の印をおびた経験主義の大きな歴史的流れが流れ出た。そのなかで、功利主義が、近代の二つの巨大なもの、一方で「国家」を他方で「市場」を作りだす思想的原動力となった意味は大きい。すなわち、今日のわれわれは、みな近代功利主義の子なのである。
功利主義はイギリスの古典的経験論に乗って展開してゆく。その一番手フランシス・ベーコンは、人間の先入見である「幻像」(イドラ)を除去し、「形相」(フォルマ)の把握によって自然を解明し、それを支配、利用することを夢みた。その思想にふさわしく、雪の防腐作用の実験中に病を得て没したが、その実験精神は近代を象徴している。
トーマス・ホッブスはこのフランシス・ベーコンの助手であった。このホッブスこそ、生々しい、赤裸々な近代の国家像の創始者である。かれは、まず、単に抽象的ではなく、人間に「権利」という所有物を認めた。この権利の所有者たちが糾合し、「社会契約」によって「コモンウェルス」(国家)をつくる。すべてが糾合されているので、このコモンウェルスは原理上、契約されている範囲では、できないことがなかった。その意味で権能において万能であり、かつて人間はこのようなものに会ったことがなかった。いうなれば巨大な怪獣(旧約聖書にある「リバイアサン」になぞらえた)が出現したのである。怪獣であるというのも、それはいわば機能的な生命体と考えられるからである。
これで、人間が自然状態(無政府状態)で暮らしている矛盾は克服される。ホッブスには、17世紀のイギリス革命前の絶えまない内乱はまさに実感であった。この契約により、人間は平和に幸福にこの地上で暮らせることになるが、人間に秩序を命じることのできるのは、本来、神だけであるから、このコモンウェルスはそれ自体「地上の神」である。その意味でホッブスの国家は中世を脱け出ていた。総じて、ホッブスは、「権利」、「契約」、「国家」を近代の人間に贈った偉大な天才的思想家である。
ベーコンの助手だけあって、「国家」の構成法も論理的科学的な色彩が濃く、また人間論は心理的生理的で、感覚と記憶が重視されている。哲学構想も、「物体論」、「人間論」、「市民論」の三部構成になっているが、「神」ぬきのものであって、もはや中世のアリストテレス的体系をみることはできない。ことに、ここにのべたような唯物主義にホッブスの大胆な近代性が表現されていると、一般には考えられている。しかし、アリストテレスの体系との関係、キリスト教との関係、教会論などは、未知の分野も多く、『リバイアサン』の最後の教会論は、それほど反教会的ではない。ホッブスの評価はややステレオタイプになっており、再評価はわれわれ近代に新しい展開を与えよう。
ジョン・ロックはホッブスと異なり、人間の「自然状態」を「自然法」のみが支配する、「自由」かつ「平等」な理想的な幸福状態ととらえたうえで、それのもつ矛盾、弱さを克服するため必要で最小限の、しかしその限りにおいては最高の権力を構想し、それを「立法権」として定義した。『市民政府(二)論』がそれである。それは君主権の気ままな行使から人民を守り、他方、立憲君主制度を理論的に擁護するという、実践的要請に貫かれており、構成は常識的に見える反面きわめて周到であり、人民を守るいわゆる「抵抗権」も社会契約の内容から導かれる。『市民政府論』は、これ自体一つの正統的教義であり、アメリカ合衆国独立宣言にはほぼ同旨の原理が採用されている一方、名誉革命を遂行した新興市民階級の利益を反映して、所有権の不可侵性が強く打ちだされている。
ジョン・ロック自身は、ピューリタンではなかったが、その生活や思想はピューリタン的であった。もっとも、その著作には「神」は強くだされず、自然法を後見する神がいた。また、『市民政府論』の構成も、親子関係の理念から出発し、目的論によって論を運んでいる。ホッブスのような原子論はとられていない。ジョン・ロックにおいて、近代秩序と古代中世的秩序が交錯しているのは、興味深い。
「国家」のつぎは「市場」である。市場の哲学者、アダム・スミスは道徳哲学者として功利主義者、そしてその上に国民経済学をきずいた。その議論の基本はこうである。まず分業を前提とする。労働そのものは「苦痛」(トイル、骨折り)であるから、商品はそれの生産に費やした苦痛に見合う分の価値をもつと考えられ、その苦痛の計算値(労働時間)が等しくなるとき、商品交換が成立する。そうでなければ苦痛は補償されないからである。スミスはこの「労働価値説」の最初の体系的樹立者であったが、分業形態の出現を前提としている。つまり、価値を実体的なものにするのが分業である。スミスの『諸国民の富』は、このように成立する「市場」メカニズムにつき、次のように述べる。
「分業について」では、道徳哲学の一大命題;
われわれが食事をとれるのも、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのでなくて、自分自身の利益に対するかれらの関心によるのである、
「国内でも生産できる財貨を外国から輸入することにたいする制限について」では、政治経済学の一大命題;
個人の私利をめざす投資が、見えざる手に導かれて、社会の利益を促進する。………見えざる手に導かれて、みずからは意図もしていなかった一目的を促進することになる、
とのべる。利己心が無政府(アナーキー)ではなく社会的善をもたらすことは、常識にとって驚きである。スミスはグラスゴー大学の道徳哲学の教授として『諸国民の富』に先立って『道徳感情論』を著したが、この2書が、政治経済学(ポリティカル・エコノミー)、道徳哲学(モラル・フィロソフィー)として、経済学の両輪をなすのである。経済学とは、市民的幸福のための市場哲学であった。
だから、「市場メカニズム」がどのような気ままな私利追求も免責するということではない。スミスは人間の利他的本能をより高次の「正義の法」としてとらえ、良い行為と悪い行為、それに対する報償と制裁をくわしく論じる。正義の法は、直接に個人の私利追求に介入することなく、全体として正義が損なわれぬ形で、個人の利己心が社会の利益を達成するよう後見すべきである。このように、スミスは「諸国民の富」の追求を、人間の高い「道徳感情」の上に載せたうえで、自由放任(レッセ・フェール、レッセ・パッセ)という神の手に任せたのである。スミスは1790年、前年のパリ・バスティーユの陥落の報と入れかわりに没したが、かれが思った新興市民階級が大陸でどのような革命を成就し、どのような反動を引き起こし、矛盾と醜悪さを抱え込みながらも次の世紀の力強い担い手に成長したか、それを知らなかった。
フランス市民革命が近代最大の政治的事件であるとすると、同時代人としてこれに立ちあったイギリス経験主義者は、いうまでもなく、ジェレミイ・ベンサムである。功利主義のモットー「最大多数の最大幸福論」でよく知られるこの近代エピクロス主義者の原点は、『道徳および立法の諸原理序説』の始まり
「自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた。われわれが口をしなければならないかということを指示し、またわれわれが何をするであろうかということを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである。一方においては善悪の基準が、地方においては原因と結果の連鎖が、この二つの玉座につながれている」(第一章 功利性の原理について)
でよく理解できるが、市民(ブルジョワ)の時代にあって、このエピクロスの説も公共性をもっていた。ベンサムの念頭にあったのは、ベッカリーアと同じく、何はともあれ刑罰法を中心とする司法改革、そして憲法改革(成文憲法典)、極度に不正な選挙法の改革、経済上の制限立法の改革などであった。大陸で起っていた急激な政治的革命と比べれば地道で、今でいえば政策科学であったが、実際には結果は失意と絶望の連続であった。選挙法改革、制限立法の改革が至難であることは、今日を見れば想像に難くない。(彼の思想を受け入れたのは若々しい革命フランスであって、ミラボーはベンサムの著作中に演説の材料を求めている。)
ベンサムにつぐジョン・スチュアート・ミルに至って、ベンサムの感覚的快楽原理は精神的のものへ拡大され、また、量的にしたがって異なった個人間で、功利(効用)は比較できないものとされた。『功利主義論』には、有名な豚とソクラテスの比喩がある。ミルは、とうの昔に廃れてしまったアリストテレスの使徒であった。
イギリス経験論の精神的な傾向はその静けさにある。フランス革命の奔放な理性信仰は、すでにジャコバン独裁のころからベンサムを困惑させていた。1789年のフランス人権宣言の「平等」、「自由」の暴力性、無政府性、全体的な形而上学性を彼は批判したが、逆に、後年、このベンサムをマルクスは「俗物の元祖」と呼んでいる。ここには、この世紀における、功利主義者の不安と役割の後退があらわれている。その意味では、ミル(1806−1873)の生きた時代はまさに象徴的であった。1806年にはナポレオン帝政が既に始まっており、1873年に第二帝政が倒れて第三共和政が成立、世界が帝国主義の時代へ入ってゆくまで、まさにフランス革命の生んだ市民社会の典型期に一致する。これは、この自由主義的功利主義者の不安をさらにつのらせた。一世紀ほど後に、ドイツの政治哲学者のカール・シュミットが『現代議会主義の精神史的地位』において
「ミルは、民主主義と自由との対立の可能性、少数者の否定を、絶望的な憂慮をもってみていた。ただひとりの人間であれ自分の意見を表明する可能性をうばわれるかもしれないと考えただけでも、この実証主義者は、説明しがたい不安のなかにおかれるのであった。なぜなら彼は、ひょっとするとそのひとりの人間が真理にいちばん近づいているかもしれないと心に思うからである。」
と言ったのは、ミルが、その『自由論』でのべたように、市民社会が自由によって生まれながらその自由を否定する矛盾をこの目で一部始終を見た同時代人として、皮膚で感じていた不安を、指しているのである。シュミットの口調にはやや皮肉が感じられる。「議会制−民主主義」の「−」は到底両立できない。二概念を強引に文言上つないでいる単なる符号と見破っていた自負があったからであろうか。
一方、マルクスの方からの批判はもっときつい。『資本論』第二版へのあとがきは、ミルの経済学へ批判の矢をむける。
「1848年の大陸の革命は、イギリスにも反作用をおよぼした。なおも科学的立場を要求して、支配階級のたんなる詣弁家や追従者以上の者であろうと欲した人々は、資本の経済学を、いまやこれ以上無視しえなくなったプロレタリアートの要求と調和させようとした。それゆえに、ジョン・スチュアート・ミルによって最もよく代表されるような、無気力な折衷主義があらわれたのである。これこそ『ブルジョア』経済学の破産宣言であって、………」
そのミルも、自由主義的功利主義者として、『経済学原理』で逆に社会主義的国家の存在を自由への脅威と考えていた。
シュミットがミルを「実証主義者」とよび、マルクスが「折衷主義者」と呼んだのは、興味深い。ミルのこの功利主義は、すでに体系に発展しつつある経済学、そして、転変きわまりないフランス社会の現実に何らかの経験的説明を与えようとする試みとしてのコントの実証主義、さらには、本筋のベンサム功利主義の「最大多数の最大幸福」原理に対する「自由」の原理からする懸念の立論、こういった諸傾向をまとめ上げる一つの受け皿の性格をもっていた。思想としての「功利主義」も、イギリス、フランス諸国の立法改革の思想原動力となって一定の成果をあげ、いわゆる「哲学的急進派」はベンサム、ミルにおいてその役割を終えた。ミルにおけるように、いわば「功利主義的」発想法として近代人の発想法の中へ拡散し発展的に解消したと思われる。マルクスの批判も考えあわせると、ミルはまさに次の時代への過渡期の思想家であった。
一つの大きな動きは、1870年代初頭の経済学における「限界革命」である。カール・メンガー(ウィーン)、スタンリー・ジェヴォンズ(ケンブリッジ)、レオン・ワルラス(ローザンヌ)は、独立に、すでにミルが指摘していた「限界効用逓減の法則」に注目、スミス以来の労働価値説に替えて「限界効用」を価値の基礎におき、生産、分配をも統合的に包む経済学理論をうち立てた。これが、今日のいわゆる「近代経済学」とりわけミクロ経済学(価格理論)の原型である。「限界効用」は財そのものを原子論的、微視的に価値づけし、経済学の課題の中に個人(方法論的個人)の主体的、主観的、心理的選択の考え方を積極的に導入、経済主体(とくに消費主体)の行動を陽表的に捉えることに成功した。
これに対しても、ソ連の経済学者ブハーリンが、この近代経済学の傾向を、「金利生活者」の経済学としてきびしく批判している。個人(主観)主義的、非歴史的、消費的傾向をさしている。マルクス経済学それ自体にも問題があるものの、「金利生活者」の幸福とは今の日本の幸福状況をしめしてはいまいか。
■ ほぼ1989年旧稿。*は節の新設。リンク設定中につき、多くは本文参照のこと。