ジョン・スチュアート・ミル『功利主義論』

満足した豚と不満足なソクラテスの快楽の質の差.

人の誇りの感覚が幸福の本質.

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 第3章概説へ


 それでは快楽の質の差とは何を意味するか。量が多いということでなく、快楽そのものとしてほかの快楽より価値が大きいとされるのは何によるのか。こうたずねられたら、こたえは一つしかない。二つの快楽のうち、両方を経験した人が全部またはほぼ全部、道徳的義務感と関係なく決然と選ぶほうが、より望ましい快楽である。両方をよく知っている人々が二つの快楽の一方をはるかに高く評価して、他方より大きい不満がともなうことを承知のうえで選び、他方の快楽を味わえるかぎりたっぷり与えられてももとの快楽を捨てようとしなければ、選ばれた快楽の享受が質的にすぐれていて量を圧倒しているため、比較するとき量をほとんど問題にしなくてよいと考えてさしつかえない。

 ところで、両方を等しく知り、等しく感得し享受できる人々が、自分のもっている高級な能力を使うような生活態度を断然選びとることは疑いのない事実である。畜生の快楽をたっぷり与える約束がされたからといって、何かの下等動物に変わることに同意する人はまずなかろう。馬鹿やのろまや悪者のほうが自分たち以上に自己の運命に満足していることを知ったところで、頭のいい人が馬鹿になろうとは考えないだろうし、教育ある人間が無学者に、親切で良心的な人が下劣な我利我利亡者(がりがりもうじゃ)になろうとは思わないだろう。こういう人たちは、馬鹿者たちと共通してもっている欲望を全部、もっとも完全に満足させられても、馬鹿者たちより余分にもっているものを放棄しないだろう。この人たちが放棄を考えるようなことがあるとすれば、それは、極度の不幸に陥って、たとえ彼らから見てどんなに望ましくなくても、自分の運命を他人の運命ととりかえるほかにその不幸を免れる途(みち)がないときにかぎられよう。高級な能力をもった人が幸福になるには、劣等者より多くのものがいるし、おそらくは苦悩により敏感であり、また必ずやより多くの点で苦悩を受けやすいにちがいない。しかし、こういった数数の負担にもかかわらず、こんな人が心底から、より下劣と感じる存在に身を落とそうなどとはけっして考えるものではない。

 この、下劣な存在に身を落としたくないというためらいについては、なんとでも説明できよう。たとえばそれを誇りに帰(き)すこともできる。誇りとは、人類がもつことのできるもっとも尊敬すべき感情につげられた名称だが、また同時にもっとも尊敬すべからざる感情の名称でもある。

 また、これを、自由と個人の自主性への熱望のせいにしてもよい。こういうものに訴えることが、ストア派にとって、このためらいの気持を銘記させるいちばん有効な手段であった。

 権力欲、または感激欲に帰すこともできよう。これらは現に、この下劣なものに身を落としたくない気持の中にはいりこみ、この気持を助長している。

 だが、それにいちばんふさわしい呼び名は、尊厳の感覚である。人間はだれでも、なんらかの形で尊厳の感覚をもっており、高級な能力と、厳密にではないが、ある程度比例している。 この感覚が強い者にとっては、これと衝突するものは、瞬時をのぞけば、いっさい欲求の対象たりえないほど、彼の幸福の本質的部分をなしている。この選択が、幸福を犠牲にして行なわれると想像する者−同じような環境のもとでは、すぐれた人間は劣った人間より幸福でないと想像する者−は、幸福と満足という二つの非常にちがう観念を混同しているのである。感受能力の低い者は、それを十分満足させる機会にもっとも恵まれているが、豊かな天分をもつ者は、いつも、自分の求めうる幸福が、この世では不完全なものでしかないと感じるであろうことはいうまでもない。しかしこういう人も、不完全さが忍べるものであるかぎり、忍ぶことを習得できる。そして、不完全だからといって、不完全さをまるで意識しない人間を羨(うらや)んだりしないだろう。不完全さを意識しないのは、このような不完全さをもつ(高級な)善を感じる能力が全然ないということだからである。

 満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。そして、もしその馬鹿なり豚なりがこれとちがった意見をもっているとしても、それは彼らがこの問題について自分たちの側しか知らないからにすぎない。この比較の相手方は、両方の側を知っている。

・下線部引用者