セネカ『心の平静について』

幸福は心の平静にある.

心の平静とは何か.

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 第3章概説へ


2 〔セネカが答える。〕実のところ、セレヌス君、私もすでに長いこと誰にも言わずに自 問してきた−君の言うような心の状態を何に似ていると考えたらよいか−と。そしてその適例を求めるならば、次のような人たちがいちばん近いと思う。長い間の重い病気からやっと解放されたものの、時には微熱や軽度の不快に襲われたり、さては病後を脱したのちでも疑念に心が落ち着かず、すでに健康であるのに医師に手を差し出して、少しでも自分の体に熱でもあると大げさに訴える、そんな人たちに似ている。セレヌス君、この人たちは体が十分に健康でないのではなくて、十分に健康に慣れていないのだ。いわば静かな海にも、とりわけ嵐が静まったときには、多少の波風は立つというものである。そこで今必要とすることは、すでにわれわれの過ごしてきた、あのような粗野ともいうべき態度ではない。つまり、ここで自分に反対し、あそこでは自分に怒り、またあそこでは自分をひどく攻めたてるというのではなく、結局は、自分に信頼し、自分は正道を歩んでいると信ずるごとき態度であって、あちらこちらへと異なった方向に走っている大勢の人々−その或る者は正道のすぐ側をさ迷っているのだが−そういう人々の入りまじった足跡に、決して呼び込まれないことである。これに反して、君が慕っているのは、偉大で最上で、しかも神に近いものであって、ゆさぶり動かせるものではない。

 この安定した精神状態をギリシア人は「エウテュミア」と呼んでおり、それについてはデモクリトスの優れた著述がある。私としてはこれを心の「平静」と呼ぶ。というのは、ギリシア語を借りて言葉の形まで真似る必要はないからである。今問題としている事柄自体は何らかの名称で示されねばならないが、その名称はギリシアの言葉の力を持つ必要はあっても、その形まで持つ必要はない。要するにわれわれの求めているのは、いかにすれば心は常に平垣で順調な道を進み、おのれ自身に親しみ、おのれの状態を喜んで眺め、しかもこの喜悦[きえつ−よろこび]を中断することなく、常に静かな状況に留まり、決しておのれを高めも低めもしない、ということである。これが心の平静ということであろう。そこで、どうすればこの平静に達することができるかを広い見地から求めてみよう。そうすれば君は、万能薬から欲しいだけのものを受け取るであろう。しかし他方、悪徳のほうも、ことごとく明るみに引き出さねばならない。そのことから各人はめいめいがもっている悪徳に気付くであろう。それと同時に、君が自分に嫌悪を感ずることになれば、あの連中より自分はどんなにか苦労が少ないかを知ることになろう。彼らは立派なことを公言していることに束縛され、また過大な名声の重みに苦しみながら、自分の意志というよりも、むしろ名誉感によって自己欺瞞を続けているのである。

・[ ]内解説引用者