アダム・スミス『国富論』

われわれの食事は問屋やパン屋の自愛心によっている.

「見えざる手」に導かれて社会の利益が促進されている.

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 第3章概説へ


分業は、人間の本性にひそむ交換という性向から生じる

 (中略)
 ほかのたいていの動物はどれも、ひとたび成熟すると、完全に独立してしまい、ほんらい、他の生き物の助けを必要としない。ところが人間は、仲間の助けをほとんどいつも必要としている。だが、その助けを仲間の博愛心にのみ期待してみてもむだである。むしろそれよりも、もしかれが、自分に有利となるように仲間の自愛心を刺激することができ、そしてかれが仲間に求めていることを仲間がかれのためにすることが、自分自身の利益にもなるのだということを、仲間に示すことができるなら、そのほうがずっと目的を達しやすいのである。他人にある種の取引きを申し出るものはだれでも、このように提案するのである。私のほしいものをください、そうすればあなたの望むこれをあげましょう、というのが、すべてのこういう申し出の意味なのであって、こういうふうにして、われわれは、自分たちの必要としている他人の好意の大部分をたがいに受け取りあうのである。

 われわれが食事をとれるのも、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではなくて、自分自身の利益にたいするかれらの関心によるのである。われわれが呼びかけるのは、かれらの博愛的な感情にたいしてではなく、自愛心にたいしてであり、われわれがかれらに語るのは、われわれ自身の必要についてではなく、かれらの利益についてなのである。

(第1編第2章)

個人の私利をめざす投資が、見えざる手に導かれて、社会の利益を促進する

 ところが、すべてどの社会も、年々の収入は、その社会の勤労活動の年々の全生産物の交換価値とつねに正確に等しく、いやむしろ、この交換価値とまさに同一物なのである。それゆえ、各個人は、かれの資本を自国内の勤労活動の維持に用い、かつその勤労活動をば、生産物が最大の価値をもつような方向にもってゆこうと、できるだけ努力するから、だれもが必然的に、社会の年々の収入をできるだけ大きくしようと骨を折ることになるわけなのである。

 もちろん、かれはふつう、社会一般の利益を増進しようなどと意図しているわけではないし、また自分が社会の利益をどれだけ増進しているのかも知らない。外国産業よりも国内の産業活動を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。そして、生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは、自分自身の利得のためなのである。

 だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合にも、見えざる手に導かれて、みずからは意図してもいなかった一目的を促進することになる。かれがこの目的をまったく意図していなかったということは、その社会にとって、これを意図していた場合にくらべて、かならずしも悪いことではない。自分の利益を追求することによって、社会の利益を増進しようと真に意図する場合よりも、もっと有効に社会の利益を増進することもしばしばあるのである。

 社会のためにと称して商売をしている徒輩[とはい−やから、ともがら]が、社会のためにいい事をたくさんしたというような話は、いまだかつて聞いたことがない。もっとも、こうしたもったいぶった態度は、商人のあいだでは通例あまり見られないから、かれらを説得してそれをやめさせるのは、べつに骨の折れることではない。

 自分の資本をどういう種類の国内産業に用いればよいか、そして、生産物が最大の価値をもちそうなのはどういう国内産業であるかを、個々人だれしも、自分自身の立場におうじて、どんな政治家や立法者がやるよりも、はるかに的確に判断することかできる、ということは明らかである。個々人に向かって、かれらの資本をどう使ったらよいかを指示しようとするような政治家がいるとすれば、かれは、およそ不必要な世話をみずから背負いこむばかりでなく、一個人はおろか枢密院や議会にたいしてさえ安んじて委託はできないような権限を、また、われこそそれを行使する適任者だと思っているような人物の手中にある場合に最も危険な権限を、愚かにも、そして僭越にも、自分で引き受けることになるのである。

(第4編第2章)

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