日航機御巣鷹山墜落事故より18年

2003年8月記す

『クライマーズ・ハイ』に寄す

埼玉県側より秩父山系を眺める.
正面両神山の方向に御巣鷹山.
(両神村観光課転載承認)

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目次

ボーイングの空
読むのも辛いボイスレコーダ
『クライマーズ・ハイ』を知る
私も御巣鷹山へ
なぜ520人の命は失われたのか
では報告書の原因は正しいのか―背景
原因を事故機に限る報告書
最後の念願


ボーイングの空

 この8月上旬私は北海道千歳空港から網走女満別(めまんべつ)まで飛ぶことがあった。羽田からB747ジャンボ・ジェット機で飛んできたあと、千歳の乗り継ぎで待っていたのはあのYS11機である。YS11は知る人ぞ知るわが国の国産機で、その設計者は木村秀政、あの戦後日本の航空機設計の伝説中の人である。航空機といえばジャンボ・ジェット機という時代に、このようなローカル線でYS11が一生懸命飛んでいるのに出会うと、なにかほのぼのとした気持ちになる。B747と比べてこのYS11の小さいことは、ちょうど幼児を大の大人と比較するようなものである。座席も中央通路の両側に2列ずつで、こじんまりとして定員もわずか64人である。乗り込んでしばらくして座席前の新聞に目を通す。あの日本航空B747墜落事故(羽田発大阪行き123便)で500人以上の犠牲者が出た8月12日がめぐってくるという。あの事故は1985年のことだった。早いもので今年で18年になる。

読むのも辛いボイスレコーダ

 16年前、つまり事故の約2年後に航空事故調査委員会の出した最終調査報告書の新聞記事(1987年6月20日毎日新聞朝刊)を私は資料としてとってあった。あの事故の起こった1985年は滞米中で日本にいなかったので(アメリカでもNASAのチャレンジャー墜落事故があった年である)、この記事は永久保存しようと思ったのである。さすがに、新聞は古くなりいくぶん黄色がかっていたが、読み返してみた。ことにコックピットのボイスレコーダ記録はあまりにリアルすぎて読めない。まじめに読み込もうと思い、私の助手にその記録のワープロ入力を依頼した。心優しい助手は、その作業は大変辛い作業で、以前ボイスレコーダはTVでも聞いたが、たいそう辛く今回も涙を流しながらの入力作業だったという。そうだろうと思う。私は無理な依頼の労をねぎらったが、ちょうど8月12日になっていた。読む間にも、墜落寸前の亡くなった方々の心、遺族の気持ちの思いがうかぶが、うまくそれを慰める言葉も見出せない。心からその冥福をお祈りするだけである。

 記録を読んでまもなく気づいたのであるが(そしてすでに多くの人々も気づき指摘しているのだが)、記録は「ドーン」という音がして以後墜落瞬間までの32分間のものである。では、羽田離陸以後「ドーン」までの11分間の記録はどうなったのか、という疑問がわく。事故原因の手がかりはこの11分間に含まれているはずで、ここで何が起こったのか。この部分は今日でも明らかにされていない。航空事故調査委員会の出した報告書は、原因を後部の「圧力隔壁」の破壊(そして尾翼の喪失、制御機能の全損)と結論づけている。にもかかわらず、いまだ答えられていない疑問点が遺族はもとより関心をもつ多くの人々からあげられており、それどころか、そもそも(これは異例だが)調査報告書自らいくつかの関連項目を「不明な」点として指摘しているのである。航空事故調査委員会自らが解明できなかったと告白した点をどうやって一般の人が解明できるというのか、正直というよりは調査委員会が責任をどう考えているのか、はなはだ疑問が残る点である。いまのところ圧力隔壁破壊説以外には事故原因は出されていない。しかし、調査委員会自ら情報を十分に明らかにせず、また原文書資料の相当部分を保管期限を過ぎたという理由で廃棄してしまった現在―新潟水俣病の被告昭和電工は、この種の理由で敗訴していることを思い出す―それ以外に事故原因はないといい切る資格は、もともと航空事故調査委員会にはないはずである。

『クライマーズ・ハイ』を知る

 そう思っているうち、日航機墜落事故を追う群馬県の地元新聞社の奮闘を描いた小説がありますよ、『クライマーズ・ハイ』(横山秀夫、文藝春秋社)という今ベストセラーになっているものですと、わが助手が教えてくれた。著者は上毛新聞で主幹デスクとして事件報道の陣頭指揮をとっていた敏腕な元新聞記者である。私は、のちに御巣鷹山のふもとの上野村にある「慰霊の園」資料館を訪ねたが、そこには著者が上尾新聞記者時代に日航機墜落事故について筆をとった記事がすべて保存されていた。それらは『クライマーズ・ハイ』の日航機墜落事故に関するくだりとピタリと一致していた。著者は『クライマーズ・ハイ』で、フィクションの体裁をとりつつも、日航機墜落事故については、事実をそのままに描いているのである。だからこそ、『クライマーズ・ハイ』は、私に圧倒的な力を持って迫って来たのである。

 取材と報道は外も内も困難を極めた。犠牲者は500人以上、墜落地点はめったに人の入らない山また山奥のこと、困難のなかでの懸命の夜間捜索により群馬・埼玉・長野の3重の県境からわずかに群馬県へ入った御巣鷹山の尾根と判明したのは、墜落から実に10時間以上も経っていた。実際、この地元新聞も「おすたか」という地名さえ知らなかったのである(ちなみに、昭文社の分県地図「群馬県」にもこの山は出ていない)。当然報道も混乱をきわめた。

群馬・長野・埼玉3県境の山並み
中央 ・ 点が御巣鷹山(昭文社複製承認)

 上野村の「慰霊の園」資料館で調べてみると、上毛新聞の翌朝8月13日第1報トップ記事は墜落地点を長野県南相木村としている。

 東京一大阪の予定航空ルートからすると群馬は大きく外れており、社内は、事故はたまたま群馬であったにすぎずそれは「群馬県のニュース」なのか、という空気に包まれ、空前の大事故を恐れと冷淡さの混じった目で見ていた。だが、そういってはおられない状況があった。墜落現場が属する群馬県上野村は文字通り降ってわいた大事故に異様な緊張と混乱に見まわれ、村長以下全村あげての対応に立ち上がっていた。主人公は突然総括デスクに指名され、内には社内の無気力との闘争、外には未曾有の救出大作戦と事故原因調査の取材の闘争がはじまる。ちなみに、主人公は登山者(山屋)である。「クライマーズ・ハイ」とは、切り立った垂直の絶壁を昇るときに恐怖感が麻痺する病であるという。いうまでもなく、このフィクションでは御巣鷹山をもう一つの困難な山と見立てている。

横山秀夫『クライマーズ・ハイ』文藝春秋社
(文藝春秋社の御好意による)

私も御巣鷹山へ

 私は以前から日航機墜落事故の本質にドロドロとした何かを感じ、日航機墜落事故のことを考えるたびに鬱々とした気持ちになっていた。

 土曜朝『クライマーズ・ハイ』を途中まで読んだとき、私の心の奥底から、押さえきれない激情が迸り出て、居ても立ってもいられなくなった。自分の目で日航機墜落現場を見なくては、と。さいわい東京の西郊から近くはないが遠くもない。私は高校では山岳部だったから、山は若干の覚えもある。

 一応の装備をし、車を引っ張り出し、午前10時にスタート。天気は曇りであった。都下の青梅(おうめ)から埼玉県の名栗(なぐり)渓谷つたいに上がり、正丸峠を越え秩父に入り、夏の台風による路盤崩壊で不通になっている埼玉・群馬県境の志賀坂峠を避けて、土坂峠経由で群馬県へ。神流(かんな)川に添って上がり、四方を山に囲まれた上野村へ入ったのは午後1時過ぎである。ちなみに、これはほぼ日航機の死闘の地上ルートに相当している。ついでこの本にもある「ぶどう峠」方向に西へ走り、ついで南へ。次第に山は高く谷は深く切れ込んで行く。「落石注意」と書いた標識にヒヤヒヤしながら、狭い山道にそって車を繰り―ギヤを一段落とさないと無理―やっと御巣鷹への登山道入り口にたどり着いたのが午後2時前。ここまでいくつ峠を越えただろうか。車ではここまでが限度であり、以前はここで引き返した。

 今回は2度目であるが、時間が早いし準備もある。だから登ることにする。登山者は私だけのようである。一帯は高度が高く地形が複雑で午後は雷雲の通り道になっており、危険が増すという警告が目に入る。わずかに小雨がふるが、この分では本降りにはならないだろう。手早く登り暗くなる前に下山しないと危ない。夜の山行は危険が数倍になるのである。慰霊者のために作ったこの登山道で登頂は楽になった。とはいえそれでも、全行程の8割以上は少なくとも20度以上の勾配があり、要所には手摺りや鎖もついている。

 ところどころの胸を突くような急勾配は厳しく、見た目には40度近くある感じもする。実際御巣鷹山は1600m級で、犠牲者の肉親が高齢だと相当大変であろう。手強い山である。そうやって急坂と瓦礫の道と闘いながら沢登り(スゲノ沢という)を1時間、ついに「御巣鷹の尾根」に立つ。私はあちこちに点在して視野に入って来る犠牲者の銘標の群に息をのみ、ことばに言い表せない悲痛な気持ちに打たれた。

 「御巣鷹の尾根」墜落地点の図

U点で最初に尾根に接触、H点にほぼ裏返し状態で衝突。
機体は2つに折れて、後半部はスゲノ沢側に滑落。
機体の後端(尾翼はすでに脱落)S点に生存者。

なぜ520人の命は失われたのか

 なぜどのようにして日航機は墜落したのだろうか。失われた命はいかに慰められようと帰ってこない。けれども、父は、母は、子は、愛する者はどのように最後をむかえたのか、それを知りたい、それが遺族のせめてもの願いである。いよいよ事故原因調査が現地、あるいは上野村役場で始まる。『クライマーズ・ハイ』では、主人公を筆頭に地元新聞の記者たちは昼夜現場あるいは委員会の会合室のまわりに張り付いて、最初の一報を口の固い調査官(委員)の表情や口振り身振りから読み出そうとする。夜遅く遠くから望遠鏡で明るい室内の様子を探ったりする。事故原因の第1報は歴史的大スクープになるはずである。「圧力隔壁破壊」らしいという情報が流れてくるが、ニュースの裏がとれない。正しければ大スクープ、誤っていれば世紀の大誤報になる。結局、朝刊の締め切り時間ぎりぎりまで不確実なまま記事を書くことについて逡巡した結果、主人公は、記事にしないことを決断する。翌朝の全国紙(毎日新聞)朝刊はトップで「原因は圧力隔壁破壊が有力」と報じ、主人公はすべてが終わったことを知る。

 念のため背景をのべておくと、事故機(8119号機)は事故数年前の1978年6月に大阪空港でいわゆる「尻もち事故」を起こし機体後部を破損、その際圧力隔壁部分を修理している。修理はボーイング社が行ったが、事故原因調査委員会はその方法の不適切が圧力隔壁破壊を引き起こしたとしている。

では報告書の原因は正しいのか―背景

 ふと、こんなことが考えに浮かんだ。なぜこのような悲惨な事故は起こったのか。あの日航機もボーイング社のB747でなく私が北海道で乗った国産のYS11機だったら、事故原因の調査の経過はずいぶんと違ったものになったかもしれない。国産機があるにはあるがシェアはわずかで、日本の航空会社はアメリカの大航空機メーカーであるボーイング社の最大の得意先の一つになっている。とりわけB747は日本をターゲットに開発された機種であることはよく知られている。このように、日本の空の輸送は大部分外国製機体に頼っているから、白分たちで作ったのではない航空機が事故を起こしても、ユーザーだけによる原因調査にはおのずから限界がある。事故原因の調査はもちろん日本単独でおこなったが、このようなメーカー・ユーザー間の力関係を通してメーカーへの配慮がなされたという推定をもつことには理由がある。

 事故原因というものは、単に工学的・技術的見地に留まらない広い意味での論理的説得力、情報公開による公平・中立・正義の原則から考えて十分でなくてはならない。そうではなかったというのが筆者の考え方である。それを「事故原因に関する推定」として述べたい。

 そもそも「原因は圧力隔壁破壊」というのは正しいのだろうか。正確には「事故調査委員会は圧力隔壁破壊を原因と判断した」であろう。「原因は圧力隔壁破壊」こそいつの日か「大ミス」とならぬとも限らない。以下は私なりの疑問点をあげておこう。

原因を事故機に限る報告書

事故報告書掲載の圧力隔壁修理図
正常図と実際図との区別はほとんどつかない

最後の念願

 尊い人命が失われた。私は、いまさらのように、われわれが責任ある政府をもっているのかを自問したい。そういう政府をもったとき、いつしかこの御巣鷹山日航機墜落事件(事故でなく)の真相も明らかになるだろうと信じている。

群馬県上野村にて