エントロピー理解のために(*)
旧制高校の英語の時間に先生が「ラグビーというのは要するに運動量の問題だよ」と言われたのを聞いてビックリした覚えがある。つまり体重が重くて速く走れる選手が大勢いる方のチームが勝つというのである。英語の先生が「運動量」(質量と速度の積)というような力学の用語をさりげなく使うのにも驚いたが、それと同時に、ラグビーという競技の本質をそういうところに見るという眼力に驚嘆したものである。
野球はそれほど単純には割り切れない。投手の力量、野手の防御力、打者の力、走者の速さ、監督の采配など、いろいろな要素が効いてくる。しかも、そういうものが全部そろって優秀でも、いつも勝つとは限らない。
オリンピックの影に隠れて目立たなかったが、昨年のセ・リーグは巨人が優勝した。給料を大奮発して優秀な選手を取り揃えたとの報道もあるが、そういう巨人でも、いつも勝つとは限らない。勝ったり負けたりする。そのたびに巨人ファンもアンチ巨人ファンも(反対の方向に)一喜一憂する。こうしてやっと優勝に漕ぎつけたのである。野球観戦の魅力は、このように、「勝ちそうな方が勝つことが多いけれども負けることもある」というところにある。ほどほどの意外性が心地よいのだろう。
大相撲も同様である。番付や過去の対戦成績から、ある程度は勝敗を予測できるが、その予想は当ることもあり、当らないこともある。観客は、そこに見られる「ほどほど」の意外性を楽しんでいるのであろう。
サイコロを投げて遊ぶスゴロクは、全くの偶然に任せるので、これで楽しめるのは幼児のうちだけであるが、モノポリーとなると、土地を買ったりホテルを建てたりする戦略も加わってくるので、大学院学生でも夢中になれると、アメリカで聞いた。ほどほどの戦略性とほどほどの偶然性の入り混じるところが魅力なのであろう。
一方、宝くじとなると、全くの偶然によるので、これに夢を託する人が大勢いるというのは、了解に苦しむ。数字の並び方を選ぶとよいとか、どこそこの売り場で買うとよく当たるとかいうのは全部迷信である。こういうゲームは戦略性を欠き、全くの偶然任せであるから、こんなものは、少なくとも知的興味の対象にはならない。宝くじの抽選現場の中継も、スポーツ中継ほどにはおもしろいものではない。
このように考えてくると、スポーツ中継がおもしろいのは、結果がある程度まで予測できて、しかもほどほどに意外性があるからではなかろうか。
1950 年ごろ、ベル研究所の Claude E Shannon は情報理論の基礎を確立したが、その中でかれは英語の冗長度は約 50 %であることを見出した。簡単に言い換えると、英語の文章の中の字をランダムに消してゆくと、半分くらいまでは消した字の見当がつくけれども、それ以上消すと何を言っているのかサッパリ分らなくなる。
校正のとき、読んでいるだけで「変だ」と気が付くのも、この冗長度のおかげである。
この点では日本語もほとんど同じで、一般に自然言語はそういう性質を持っていると考えられている。
冗長度が高くて、始めの部分をちょっと聞いただけであとに続く部分が大体分かってしまうような、月並みな挨拶や決まり文句は人を退屈させる。
逆に冗長度が低すぎて、一言聞きのがしたが最後、そのあとは何を言っているのか、サッパリ分からなくなるというのも困る。冗長度 50 %というのは、なかなかいい線ではないだろうか。
音楽についてはどうだろうか。われわれの親しんでいるいくつかの唱歌について、音の移り変わりの統計をとってエントロピーを計算してみたところ、デタラメにピアノの白鍵を叩くときのエントロピーに比べて、どれも約半分の値を示した。
エントロピーというのは、もともと熱力学の用語であったが、情報理論でも盛んに使われるようになった。それは、簡単にいえば「乱雑度」のようなものである。たとえば子供部屋のエントロピーは、朝は低いが時間とともにだんだん高くなっていくのが通例である。
音楽の場合でいうと、いろいろな振動数の音をデタラメに出したのでは「雑音」の最たるもので、聞くに耐えない。ピアノの白鍵と黒鍵を合わせると(1
オクターブの間に)12 個の音が入るので、これをデタラメにたたいて音を出すと、エントロピーは
log212 = 3.55
くらいになる。白鍵だけなら 7 個だから
log27 = 2.81
になり、さらにファとシを抜いて「47(よな)抜き」にすると
log25 = 2.32
となる。
もっと詳しく、どの音の次にどの音が出るかという音のつながりを調べてエントロピーを計算してみると、
「茶つみ」で H = 1.53
「赤とんぼ」で H = 1.7
「さくら」で H = 1.3
「花嫁人形」で H = 1.56
というような数値が得られる。
これらの結果を上の 12 音や 7 音のときの値と比べると、おおざっぱに言って、やはり半年ぐらいの値であると言えよう。ここでも、初めて聴く人が、次にどんな音が出るかは半分ぐらい予測できて、半分くらいの意外性が残るといってよさそうである。
次の音の予想が完全にできるようでは退屈であるし、反対に全然予想できないのも落ち着かない。半分くらいの意外性があるのが心地よいのであろう。
講義のエントロピーを簡単に計算することはできそうにもないが、気分的には同じようなことが言える。
10 年 1 日の如き講義が、先輩のノートをもらっている学生にとって、おもしろくないのは、その先が見えているからである。もっとも、毎年同じところで同じ冗談を言う先生がいて、そこへ来ると学生全員が大いに笑うので先生自身は得意であるが、その実は、学生たちはそこでそういう冗談を言うことを予め知っているから大いに笑ったのであるというような話を、伝説として先輩から聴いた覚えもある。
それはともかく、完全に先が見えて分かってしまうような講義はつまらない。かと言って、次から次へと話題が移って行ってとりとめがないのも困る。ほどほどに意外性の感じられる講義がおもしろくてためになるということは一般に言えるであろう。
講義実験のある講義は、自然に、ほどほどの意外性を備えているという点で、きわめて有効である。理科教育の中では、毎回少なくとも 1 つの講義実験を入れることは簡単であろう。数学だって、たとえは確率論の講義は、サイコロ丁半やら、玉抜きやらの実験から始めるのがよいと思う。そうすれば自然に心地よい意外性が現れてくる。サイコロ丁半で、丁が 5 つも続いて現れたりすると、学生は笑い出すが、それでも平気で続けると、100 回くらいの実験で、出現率が、理論の示す範囲内に納まるのが常である。これで学生は、「理論」と「実際」との微妙な関係を感じ取ることができる。
ノートを持ってこない先生の講義もなかなかよい。問題を提起し、基礎方程式から出発して、先生が考えながら進めて行く数式展開の実時間演出は、学生にとって――人によって多少の違いはあっても――ついて行くのにあまり無理のない速度である。よく分かる学生は先生が時に犯す誤りを見付けて、後に先生がオヤと感じ始めたときにこれを申し出るというようなことも起こる。これは決して時間の無駄ではない。人は時に誤るものであることを身を以て示してくれているわけだし、これも心地よい意外性の一種と考えられるからである。
研究の醍醐味が心地よい意外性にあることを改めて説明する必要はあるまい。研究論文は、したがって、通説から予想される結果と並んで意外な新事実が報告されて当然である。
むかし数学のある大先生から「1 年 1 作、10 年 1 作」と言われたことがある。普通並みの論文は毎年 1 つくらいは発表し続けるのが研究者としての義務である。そして 10 年に 1 度くらいは、一生の思い出になるほどの結果を発表したいものである、というような意味であろう。
これをいまの文脈に当て嵌めて表現すると、次のようなことになる。毎年 1 回は、ほどほどの意外性を含む論文を発表し続けよう。そして 10 年に 1 度くらいは本当にビックリするほどの意外性をもつ論文を発表したいものである。――実際にこれを達成することは容易ではないかもしれないが、研究者の心掛けとしては、ぜひそうありたい。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚についても、心地よい意外性が好まれる例がいろいろ思い当たる。
青く澄んだ大空に、千変万化の雲の姿を見るのは楽しい。静かな庭に時に訪れる鳥の声はなつかしい。群衆の中にかすかにただよう香水の香り、甘い味のなかに「隠し味」としてほんの少し添えた塩味、ふわふわとした毛並みの下の引き締まった皮膚の感触、等々、数え上げれば切りがない。
人の一生はさまざまである。生まれついたときから一生の基本的な条件が定まると考えられていた封建時代にさえ、一人一人の運命はさまざまに変化したと思われる。そのすべてを「心地よい意外性」と総括するのは無理であろうし、むしろ人生を「苦界」と見たくなるような実情が少なくなかった。
今日ではどうか。人は生まれながらにして平等であり、原則として「機会の平等」は保証されてしかるべきであるとする建前のもとで、持って生まれた天分を伸ばし、激しい競争社会の中で生き抜くことは容易ではない。容易ではないが望みはある。精進を重ねるには苦痛を伴うことも多かろうが、その先には「心地よい意外性」が待っている可能性が大いにある。
50 億人を越えた世界人口の大半は、このような「心地よい意外性」などは望むべくもなく、むしろ「無残な必然性」ともいうべき境遇に置かれている。
東西の「冷戦」は終わったが、局地的な対立抗争は深く、解決の道は遠い。
このような世界の現実を思うと、「心地よい意外性」を期待して精進する姿勢にも迷いが生ずるかもしれない。しかし、ここには 1 つ人類の未来に思いをはせて、この絶対的とも見える難問を解く上での「心地よい意外性」に出現を期待したいものである。
出典:『スキエンティア』より許可を得て引用
(*) サブタイトルは制作者による。