インパール作戦

1944. 1. 7 - 7. 4



 地図はインパール作戦が行われたインド、北ビルマ(ミャンマー)、バングラデッシュ、中国(雲南省)の国境地帯。ビルマから国境をインド(マニプル州)へ越えると要衝インパールがある。
 この地域はヒマラヤ山脈がインドシナ半島に落ちるところであり、地形は極めて険阻、インド・ビルマ国境をなす西側山脈(アラカン山系、パトカイ山系)は 3千m 級でかつ急峻、容易に人を寄せつけなかった。それに添って南流するチンドウィン川(下流はイラワジ川となる)も夏季 には最大 1 日 1000 ミリを超える雨量(東京の年間雨量に近い)で水嵩が増し、荒れ狂う無数の流れに分かれ氾濫、また、流域は高温多湿でチフス、マラリアなど熱帯病が猖獗(しょうけつ)し猛威を振るった。
 作戦は劣悪な補給と不適切な作戦指導のもとで激戦の末インパールの北方コヒマまで迫ったが、占領はできず失敗、ようやく撤退が始まる。しかし、わずかな生存者さえも、英印軍の追撃、戦傷、疾病、飢餓と栄養失調で行き倒れになる者が続出し、兵たちが退却した後には無数の白骨が転がり「白骨街道」と呼ばれた。退却行は大敗走となり、かろうじてチンドウィン川渡河点まで退却できた小数の兵も渡河の体力・精神力を残すものはわずかであり、多くが川を前にして落命した。作戦の犠牲率は極めて高かったが、丸山静雄『インパール作戦従軍記』(岩波新書)によれば、それでもインパール作戦の真の悲惨さは今日もわからないという。その部隊が全滅したからである。

 有名な竹山道雄『ビルマの竪琴』は、「あの物語は空想の産物です。モデルはありません」と解説しているが、「ビルマ」や作品中の「ヒマラヤ」の地名といい、イギリス軍との戦いといい、山野にちらばっている日本人の白骨といい、あるいは友人のインパールでの死といい、この作戦を彷彿(ほうふつ)させるところがある。

 「インパール作戦」とはそもそも何か。結果は大破局に至った作戦であるから、これを述べるには客観性が必要であるが、そこは距離を置いた観察者の記述がよいであろう。朝日新聞の従軍記者であった丸山(上掲)によれば;

−インパール作戦とは、ビルマに進入した日本軍が幾多の作戦によってほぼ全ビルマを占領したあと、さらにビルマ国境を越えてインドに進攻しようとした一大作戦をいう。この作戦はビルマを確保するためにはビルマの防衛線を国境外に推進しなければならないとする戦略と、インドに兵を入れ、インドを独立させて英国を浮き上がらせ、英米の連合戦線を分断することによって太平洋戦争を終結に導いてゆきたいとする政略とが結びついて企図されたものである。−

−作戦は第十五軍(軍司令官は牟田口廉也中将)が三個師団を持ってインパール平原に拠る英軍第四軍(軍団長はスクーンズ中将)の三個師団を攻撃するというもので、主力(第三十三師団=弓兵団)をもって南からインパールに迫り、一部兵力(第十五師団=祭兵団)をもって東からインパールを衝き、他の有力兵団(第三十一師団=烈兵団) をもって長駆ウクルル山中を突破してコヒマに進出、英軍の退路を断つという大胆な構想であった。−

 「インパール作戦」は一司令官の功名心から発案され、その認可・発動の背景には当時の行き詰まりの色濃かった戦局の事情があった。それは大胆よりも無謀といえるものであり、司令官のあまりの理不尽に現場司令官の抗命事件をはじめ戦史上のスキャンダルを生んだことは、高木俊明『抗命』などに描かれている通りである。しかし威信低下を恐れる軍は最後までこの惨敗の原因の総括もせず責任も問わなかった。ここにこそ太平洋戦争全体の無責任性が具体的例をもって表れていると批判する意見は多い。

--- 陸上では、ビルマ方面での作戦で日本軍が惨憺たる敗北をこうむった。日本に通じたインド仮政府のチャンドラ‐ボースの面子をたてるための政治的配慮などもあり、かつビルマ方面軍所属第一五軍司令官牟田口廉也は、蘆溝橋事件の際の現場の連隊長であったところから、「蘆溝橋で第一発を撃って戦争をおこしたのはわしだから、わしがこの戦争のかたをつけねばならんと思うてをる」といった功名心にかられ、一九四四年三月、インパール攻略作戦を強行した。しかし、食糧の補給計画なく、輜重(しちょう=軍需品補給用の輸送)用の牛を食い、野草を食う予定で、しかも山砲以下の軽火器と僅少の弾薬のみをもち、険阻な未開発の山野の広大な地域に向って進軍する日本軍に対し、英インド軍は、砲兵・戦車等で固められた「蜂の巣」陣地を拠点とし、航空機の援護と弾薬・食糧の大量補給をつづけるという、思いもかけなかった立体的戦術をもって反撃してきたのであるから、日本軍は到底互角に戦えるはずがなかった。しかも前線の師団長が補給のない絶望的な戦闘をつづけることによってむざむざと部下将兵を飢餓と敵の猛撃下に全滅させる惨状を坐視するに忍びず、繰り返し後退を懇請しても、牟田口はこれを一蹴して抗戦継続を強要した。第三三師団長柳田元三が作戦中止の意見を具申し、憤激した第三一師団長佐藤幸徳が独断で退却を決行すると、牟田口は、柳田・佐藤および病気にたおれた第一五師団長山内正文の三師団長を罷免するという、日本陸軍史上未曾有の事態を惹起するにいたった。七月に入ってついに全軍退却のやむなきにいたったが、食糧・弾薬は尽き、マラリア等の病がひろがり、傷病兵は路上に倒れて自決するほかなく、日本軍の退路はいたるところ死屍累々として、「実に鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)(*) たる惨状」を呈した。第一五軍の無謀きわまる作戦のために、参加兵力約十万の内約三万を失い、約二万は病に倒れ、残存の約五万のうち半数は患者であったという。この無謀きわまる作戦こそまさに太平洋戦争の縮図というべきではなかったろうか。英印軍は追撃してビルマに進撃、日本に与していたビルマ軍も反旗をひるがえし、四五年五月ラングーンが陥落して、ビルマは奪回された。--- (家永三郎『太平洋戦争』岩波)

* 鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう): 「鬼哭」とは浮かばれぬ亡霊が恨めしく泣くこと。「啾々」とはしくしくと泣くさま。

 かくて世にいう「インパールの悲劇」の悪名を今日に残したインパール作戦は、多大な犠牲者を出して作戦認可半年の後 7 月 4 日惨憺たる失敗のうちに中止された。時に、南東太平洋の最重要の戦略的要衝サイパン島が陥落、東条内閣が崩壊し戦局と政局が重大段階を迎えたのも、これとほとんど同時のことであった。
 作戦の惨禍は以下の通りであるがなお不明な点も多い。また、一般にもそうであるが、生存した当事者により語られる戦場の敗北の記録と歴史は、責任の回避や転嫁に潤色されることがしばしばである。これはインパールの場合においても例外ではなかった。戦後牟田口中将関係者が戦史の記録に与ることに対して、犠牲者遺族からごうごうたる非難の声が上がったことは、一応記憶に留めておく必要があると思われる(本項終わり)。


【第十五軍各兵団の状況】

  第三十三師団
(弓兵団)
第十五師団
(祭兵団)
第三十一師団
(烈兵団)
軍直轄部隊
参加兵力 約 17,000 約 16,000 約 16,600 約 36,000
残存兵力 約 2,200 約 3,300 約 5,000  
消耗率 84 % 78 % 67 %  
戦死者 4,002 3,678 3,700  
戦傷病死者 1,853 3,843 2,064  
行方不明者 405 747 不詳  
後送患者 不詳 3,703 不詳  

【第十五軍の状況】

作戦前の総兵力 155,000
生還者総数 31,000
犠牲者総数 123,000
犠牲者率 80 %

(ビルマ方面軍兵站参謀 倉橋武夫中佐による)

【日本軍の損粍】

  損粍 参加兵力
第三十三師団 21,000 25,000
第十五師団 16,000 20,000
第三十一師団 13,000 20,000
軍直轄部隊 15,000 50,000
65,000 115,000

(第十四軍司令官スリム中将「Defeat into Victory」による)


コンパクト年表