窮余の一策、帰還の途なき突撃
日本海軍最後の艦隊、九州沖に滅ぶ
大艦巨砲主義にとらわれ時代の教訓を学ばず
世界最大最強の戦艦、日本海軍最後の艦隊、未曽有の海上特攻、空からの援護なしの出撃、志半ばの悲壮な最期……。大和に対して与えられた言葉は数多い。だが、少なくとも大和の出撃を「滅びの美学」の名のもとに美化することは無謀である。悲壮な最期ゆえに、大和は後世に名を残すが、帰還の道をとざされたまま出撃していった乗員は、あまりにも悲しい。
ただここで指摘しておかなければならないのは、大和は、公式には片道燃料だけで出撃していったことになっているが、実際には往復分の燃料が積みこまれていたという事実である。大和出撃を前にして、連合艦隊総司令部の草鹿竜之介参謀長が、「燃料は片道分しか補給できず。即ち帰還の途なき特攻作戦である事を覚悟すること」といった訓令を行った。これに反撥した燃料担当の小林儀作参謀長は、「たとえ生還の見込みの殆ど無い特攻攻撃であっても、万一の場合作戦中止となった時、帰還も出来ないという事は武人の情としてしのび難い」として、沖縄往復分の給油をしたというのが真相のようだ。
(中略)
出撃に先立って、有賀幸作艦長は海軍兵学校、経理学校を卒業したばかりの候補生 73 人を退艦させた。
4 月 6 日午後 3 時 20 分、大和以下、巡洋艦矢矧、駆逐艦冬月、涼月、磯風、浜風、雪風、朝霜、霞、初霜の 10 隻からなる第二艦隊は、山口県徳山沖を出撃した。
出撃した大和は、豊後水道を出てまもなく米潜水艦に発見され、追尾される。米軍のスプルーアンス第五艦隊司令長官は、これが最後の艦隊同士による砲撃戦になるものと、出撃準備を命じた。そして、機動部隊指揮官のミッチャー中将は、配下の航空部隊に大和を撃沈させる胎を固めていた。
7 日午前八時すぎ、米軍哨戒機は大和の艦隊をとらえた。10 時 18 分、3 隻の空母から米軍の第一次攻撃隊 260 機(戦闘機 110、爆撃機 51 機、雷撃機 99 機)が飛び立った。12 時 32 分、大和への攻撃を開始。午後 2 時 10 分までに 4 次にわたる攻撃を受けた大和に、最期のときが迫った。
2 時 23 分、左舷側に大きく傾斜するとともに艦底が露出、前部・後部の砲塔が誘爆して、瞬時に沈没した。第二艦隊司令長官伊藤整一中将、大和艦長有賀幸作大佐以下乗組員 2489 人が、艦と運命をともにした。生存者は 276 人。大和、矢矧、朝霜、浜風、霞、磯風の 6 隻が沈没、計 3721 人が戦死する。戦果としては、「敵機」撃墜 6 機、戦死 14 人(米軍記録による)を数える。
出典:毎日新聞社『昭和二万日の全記録7』
文芸春秋
『戦艦大和』角川書店版
心ならずも戦場に赴き戦争に従事し、そして幸運にも生還した戦争体験者による戦争批判の文学作品は数多い。その中でも、この作品は、よくありがちな教訓調でなく、鋭く透徹した理性と批判精神に貫かれ、仲間や同胞、同時代人に対する思いやりと愛と共感に裏打ちされ、書き進むにつれ作者の心の深まりは読む者の心を打つ。その秀逸さは格調高い文章もあって多くの読者を集めたものである。題名が一部の人々の愛好する戦争読物と誤解される向きもあるが、題名が「最後」でなく「最期」である点、文字通り一つの時代精神の終焉(死・末期 [まつご])を知らせるものである。
作者吉田満(よしだ・みつる)は東京帝国大学法学部卒、学徒動員で招集され大和に搭乗、1945 年 4 月「菊水一号」作戦といわれる沖縄「片道特攻」(生還を予定しない)に参加、九死に一生を得て生還した。戦後は日本銀行に勤務の傍ら、キリスト者として過ぎた戦争を見つめ、その深みから戦争を批判し現世代に真の平和を問いかけたところは、今日なお価値を失わず示唆するところは大きい。
基準排水量 | 69,100 (t) | |
全長 | 263 (m) | |
最大幅 | 38.9 (m) | |
最大速力 | 27 (ノット) | |
大砲 | 主砲:46cm | 連装砲塔 3 基 9 門 |
副砲:15.9cm | 3 連装砲塔 3 基 6 門 | |
艦載(上)機 | 水上偵察機観測機 6 機 | |
乗員 | 3000 (人) |
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