米軍沖縄本島へ上陸

−連合軍、「鉄の暴風」を以て日本本土侵攻の第一歩−

1945. 4. 1

 

本島中部の嘉手納・北谷*海岸へ

艦船 1317 隻、艦載機 1727 機、人員 451,867 人

 

凄惨な地獄図、背景に本土人の沖縄住民に対する差別意識

軍に集団自決を強要され、住民「米軍より日本軍の方が恐ろしい」

*かでな・ちゃたん


本土にさきがけて戦場となった沖縄 4月1日、怒濤のごとく押し寄せ上陸する米軍 沖縄本島。米軍は那覇市北方
嘉手納北谷海岸に大挙上陸

現在地

 住民大量犠牲と死闘の 86 日

1944/10/3 米軍、沖縄攻略の命令(予定期日=1945/3/1)
1945/
 3/25 米軍、慶良間(けらま)列島に上陸
    ―― 住民の集団自決相次ぐ(3/26, 27)
 4/1 同、沖縄本島嘉手納に無血上陸
 4/4 同、宜野湾へ進出、沖縄を南北に二分
 4/6−5/22 「菊水作戦」(特攻作戦、1 号−10 号)
 4/7 戦艦「大和」以下海上特攻、主力全滅(九州沖)
 4/19 首里[那覇市近郊]攻防戦始まる
 5/4 日本軍の総反撃失敗
 [ 5/7 ドイツ無条件降伏 ]
 5/22 日本軍首里撤退、島南部へ後退(27 司令部摩文仁[まぶに]へ)
 5/31 米軍、首里を占領
 6/10 B29 九州爆撃で特攻出撃衰退、制空権米軍の手に
 6/18 「ひめゆり部隊」(特別志願女子看護部隊)49 名、摩文仁村で自決
 6/21 米軍、本島確保を宣言、投降を勧告
 6/23 沖縄守備第 32 軍全滅(司令官牛島満自決)、組織的抵抗終わる。
(沖縄戦終了=慰霊の日)
 6/25 大本営、沖縄戦における日本軍組織的作戦の終結を発表

注) 「玉砕」「特攻」「自決」: 我が国においては軍人は退却も投降も禁じられていた(「軍人勅諭」「戦陣訓」)。戦場が最終的に望みが絶たれる状況となった場合、陸軍では死を覚悟で最後の一斉突撃を試みるか、海軍では戦闘機で敵戦艦に単独で絶望的体当たり突撃を加えるなど(今日的表現では)自爆的戦法ないしは作戦を採用するか、あるいは、最終的には決断してその場で自らの生命を絶つか、これら以外に道を見いだせなかった。前者は「玉砕」、「特攻」、後者は「自決」とよばれたが、「玉砕」は玉と散ること、「自決」は潔く死ぬことを意味する。いずれも明らかに非人間的であり、無謀・不合理かつ無益と感じられつつも、日本人の武士道精神から来る美学と、なによりも最終段階に達した戦争の現実から、このような死の美化と合理化もさしたる意外性なく通ったのである。

 

 ところで、住民まで兵力に編入され、あげくのはてに軍から「自決」を強要されたのが沖縄の悲惨さである。慶良間諸島での初期の住民大量自決、終局局面での女性「ひめゆり部隊」の集団自決など、今日もなお知られる沖縄の悲劇を生んだ。

 戦死者*累計(人)

4/1 505
4/20 11,864
5/3 30,265
5/16 48,015
5/27 59,055
6/10 68,715
6/20 90,401

* 文脈より日本側のみと推量

 日本側死者内訳(人)

正規軍 66,000 弱
防衛隊 28,000 余
戦闘協力者* 55,000 余
住民 94,000 余
 合計 244,000 余
 (内、住民) (149,000余)

* 純粋に住民と見なしてよい

(出典:『昭和2万日の記録』(7)、他資料より)

2002 年 6 月 23 日(慰霊の日)、沖縄戦で亡くなった両親や兄の名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」の前で祈る老夫婦(朝日新聞同 24 日付)

今も悩む「沖縄」の戦後

「鉄の暴風」を記憶しておこう

看護婦(師)さんの卵まで徴用


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